逡巡のとりどり@京都


by anzu-ruyori
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九州の旅★筑豊編その3

「旅の朝だけは早起き」の私は朝の散歩へ。

広い敷地の「筑豊ハイツ」 昭和48年竣工
 立派なレリーフの説明板によると
「わが国産業の発展に貢献した石炭産業に従事しさらに石炭産業斜陽後は筑豊地区再興の原動力として働く筑豊地域勤労者およびその家族の福祉の増進を図るため緑と太陽に恵まれた当地を選定し、これを筑豊ハイツと名づけ昭和44年以降4年の歳月を費やし整備した。総事業費 7億円・・・・」

屋内外のテニスコートと温泉、宿泊施設のあるこの場所を元炭鉱労働者の人とその家族が利用しているのだろうか?

二日目もマイクロバスで移動。

5福吉伝道所 と ボタ山跡

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犬養光博さんがこの3月まで46年間、活動された福吉伝道所を訪問。いまは無人

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周辺には、新しくなった炭坑住宅と崩れたボタ山が、緑に侵食されていく姿が。

6仁保炭坑 坑口 セメント台座


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巻き上げ機の台座 セメント製は戦後のものとのこと。

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炭坑口が、むき出し。閉山のあと一時造成されたが頓挫して、そのまま放置されている。
子どもが遊んで事故がおきたりしないのだろうか。
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炭坑あと全景、ボタ山がみえる。地図にも載らない小ヤマといわれる零細炭坑。
戦前からも戦後もひどい労働条件で搾取があったことだろう。暗い坑口をみていると怖くなった。今も、人々の怨念がそこにある気がした。

7無窮花堂(むぐんふぁどう)
2000年12月に建立された無窮花(むぐんふぁ)堂 
飯塚市の霊園の中にあります。

お堂の中には、いまだ身元のわからないお骨が納骨されていました。
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韓国からもってこられたむくんふぁ(むくげ)の花が咲いていました。

お堂の後ろには、「歴史回廊」と題して陶板による朝鮮と日本の歴史がわかりやすく
解説されています。
韓国からの訪問者がこのお堂で「アイゴー」と泣かれるという。
日本人こそがこの場所にくるべきだと私は思いました。

アリランを心の中で歌いました。

8炭鉱犠牲者復権の塔

若宮市の千石公園というキャンプ場のある山の中にある「復権の塔」は、1982年服部団次郎という牧師が、建立に尽力された。台座のレリーフには山本作兵衛さんの絵もある。レリーフの下にはめ込まれた左右6枚の石は、炭坑で働いた日本人以外の6ヵ国からとりよせた石とのことだが、その説明はない。
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9三菱・飯塚炭坑巻き上げ台座 

大正時代につくられたレンガの巻上げ台座が二つ並んで、遺っている場所がある。
大正7年創業した中嶋鉱業が昭和に入って三菱飯塚炭鉱に合併されたところ。
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第二坑本卸 入気・石炭運搬用
すぐ下に民家がある。大正時代は蒸気で稼動していたこの巻き上げ機のとなりに
太陽光発電のパネルのある民家の屋根があります。

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連卸 排気・人車運搬用

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車が走っている道が、炭坑があったときは鉄路があり、石炭が運搬されていた。

レンガ色の大建造物は、まるで「ジブリ」のアニメのようでもあった。「ジブリ」の
世界も結構「蒸気機関偏愛」です。

このあと、嘉穂劇場を外から、旧伊藤伝右衛門邸を見学して新飯塚駅でマイクロバスを
おりて、二日間の筑豊フィールドスタディが終わりました。

犬塚光博さんは、昼食先の「林田春次郎旧宅」や「伊藤伝右衛門旧宅」は筑豊に46年いて
はじめて行かれたそうです。極貧の労働者たちや朝鮮人の苦労を知っている犬養さんにとっては田川市の初代市長林田氏や炭坑王伊藤伝右衛門は、仇敵でしょう。
私は、贅をこらした旧宅が、にがにがしくて仕方ありませんでした。
林春次郎邸の二階からは、遠賀川と筑豊の山並みがよくみえました。炭坑があったころはここから町をみおろして気持ちのよかったことでしょう。働いている労働者たちのことは見ていても「見えていなかった」のか。
伊藤伝右衛門邸では、年配の女性案内員の名調子で、楽しく案内していただきましたが、炭坑王を褒め称える文言ばかりでした。しかし、帰りに少し声をかけたら、彼女自身が炭坑住宅で育った労働者の子どもだったのです。心中複雑ではないでしょうか。
 
 炭坑遺産が観光化され、山本作兵衛さんの世界記憶遺産登録で拍車がかかっていますが、「昔、日本人はがんばった」的にひとくくりされて、労働者の苦しみが美化され、朝鮮人や中国人がまったく「いなかった」ように、されていると強く感じました。

 犬養さんは最後にバスの中で、マツオくんという筑豊出身の男性のお話をされました。
筑豊に生まれ育ち、学校を卒業すると京阪神に働きに出たけれど、精神を病んで、もう長い間入院されている方です。(筑豊の大きな病院は元炭坑主が経営しているそうです。飯塚病院は元麻生病院。精神科が多いそうです。)
そのマツオくんからの手紙にはいつも「先生のいわれたように、正々堂々ウソをつかないで生きていきます」と書かれているのです。

 犬養さんは、筑豊でキリストに出会ったといわれました。

 伺ったこと、伝えたかったことなど、いっぱいの宿題をもらった気持ちで、私は犬養さんとお別れの握手をしました。

 みなさんと別れてオプションで
10飯塚歴史資料館 

 炭坑の詳細が展示されていましたが、田川の炭坑博物館の技術中心の展示ではなく、
炭坑労働やくらしに焦点が当てられているように思えて、好感でした。朝鮮人の記述はないけど。

 たばこの包み紙でつくられた炭坑労働の工作が、微笑ましかったです。煙草販売業婦人会作。

 また、古代の埋蔵品が展示されていて、古来、豊かな暮らしがここにあったのだとわかりました。
石炭が発見されなかったら、豊かな農耕文明が発達していたことでしょう。
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シェー的はにわ(資料館の庭)








11麻生家本宅
新飯塚駅から「麻生太郎の本宅」すぐ近くときき、見物にいってみました。

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資料館前に、長ーい塀が続いていました。中は森のよう・・・。

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資料館に「麻生大浦邸 秋のお庭公開」と日程が張ってありました。
見学できる日があるのですね。 太郎さんはこの家に帰ることもあるのでしょうか。



12筑豊本線 桂川(けいせん)~原田(はるだ)

 新飯塚駅から、筑豊本線 桂川(けいせん)駅で乗り換えて原田(はるだ)まで。
この鉄道が、面白かったのですよ。
 一両だけのコンテナカー 大好きな山岳鉄道!でした。
(伊勢にいくときの柘植から亀山のコンテナ車とおんなじ)
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もちろん 単線!
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はじめのんびり
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どんどん山の中!そして早い!ゴーゴー
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わあ!トンネルだあ! (冷水トンネル 長い!)

京都に帰ってから読んだ本によると、
私が今回通った経路は、昔からの筑豊への鉄路だったのです。

朝鮮から下関についた人たちは、門司に渡って小倉から日豊本線で、田川伊田駅まで。
また、福岡港についた人たちは博多から原田で乗り換えて、筑豊本線で桂川、飯塚まで。

あの山道をどんな気持ちで機関車にのって来ただろう。不安だったろう。くやしかっただろう。

桂川駅で、40分待ちだったので、そのとき撮った写真。
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これも、帰ってから調べてみてわかったのですが、
この山のむこう側に、私が筑豊にくるきっかけになった
服部百代さんが働いていた明治鉱業平山炭坑があったのです。

犬養さんにいただいた資料の福岡県特高課の「移入労務者調査表」によると
1944年1月末現在 明治平山炭坑 移入者数2487人 逃亡者数1365人 死亡13人 でした。

筑豊にあるたくさんの魂が、私をここに呼び寄せたのだと思います。

私がこれまで「見えなかった」「見ようとしなかった」人たちのことを知ることができて
よかったと思います。私が知らなかったこと、知ったことを伝えていかなくてはと思います。

今回、炭坑労働者の姿におのずと原発下請け労働者の姿を重ねずにはいられませんでした。
決して、遠い昔のことではないのです。

犬養光博さん、筑豊フィールドスタディのスタッフの方、参加者のみなさん 運転手さん、ありがとうございました。
また、お会いしたいと思います。

九州の旅★筑豊編おわり やれやれ。 次は、太刀洗編。
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by anzu-ruyori | 2011-10-03 20:20 | 平和 自由