ごくろーうさんと云うことばは、人の気持ちをあたためる★竹内浩三 筑波日記
2012年 02月 12日
「五月のように」さんより転載させていただきます。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html
なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
筑波日記 全文と写真版を参照させていただいています。
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=510&cPath=177_222
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1944年 昭和19年
2月12日
全員五時半起床だから、こちらはすくなくとも五時には起きなければならなかった。
そんなに早く起きて、一体なにをするのかと思ったら、大掃除であった。
当番を交替までして、午前中体力検査であった。
百米 16秒
懸垂 3回
千五百米 8分32秒
幅とび 3.3米
『座右銘 365撰』の中に
「百発百中の砲、能く、百発一中の敵砲 百門に抗す」と云うようなのがある。
読んだとき、これは算術かと思った。 100/100×1=1/100×100
近頃、どこからも、とんと、たよりがない。
ごくろーうさんと云うことばは、人の気持ちを温める。軍隊では、とくに必要だ。
2月13日
マッチを使うように、当番を、かんたんに使う。
大隊の内務検査。
二日目か三日目に上る二つの饅頭が、重大な意義をもつ。
2月14日
飛行場ノ赤イ旗ガ
風ヲ待ッテイタ。
2月15日
中隊当番下番。
せんたくをしていたら、雲が白い粉をまいてよこした。
風呂から出てきたら、吹雪になっていた。
野村からはがき。
・・・・・・・・・・・・・・・・
寒い筑波。
中隊当番の浩三さん、「ごくろーさん」という言葉ももらえないのでしょう。
「野村」とは、「野村一雄」さん宇治山田中学の同級生で、「伊勢文学」同人。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html
この筑波日記がはじまる直前の1943年12月、浩三さんは伊勢に帰郷している。
そのとき、偶然にも野村一雄さん、中井利亮さんも入隊を目前にして、帰郷されていた。
「書斎に三人枕を揃えて、夜更け迄、寝床の中で最後の別れを惜んで、語り明した」
(野村一雄さん)
戦後、復員した野村さん、中井さん、土屋さんが集ったときの思い
「竹内よ。一時も早く帰ってこい。私達三人の気持は、何時もこんな気持で待ちうけている。
死んでいたとしても、私達のお互いの魂の内に、常に語りながら、彼は永遠に生きる、
生かさねばならぬと言う気持が私達三人の気持を、つつんでしまった。」
(1947年 伊勢文学より 野村一雄さん)
私は、これを読むといつも泣いてしまう。
全文は、以下にあります。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html
なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
筑波日記 全文と写真版を参照させていただいています。
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=510&cPath=177_222
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1944年 昭和19年
2月12日
全員五時半起床だから、こちらはすくなくとも五時には起きなければならなかった。
そんなに早く起きて、一体なにをするのかと思ったら、大掃除であった。
当番を交替までして、午前中体力検査であった。
百米 16秒
懸垂 3回
千五百米 8分32秒
幅とび 3.3米
『座右銘 365撰』の中に
「百発百中の砲、能く、百発一中の敵砲 百門に抗す」と云うようなのがある。
読んだとき、これは算術かと思った。 100/100×1=1/100×100
近頃、どこからも、とんと、たよりがない。
ごくろーうさんと云うことばは、人の気持ちを温める。軍隊では、とくに必要だ。
2月13日
マッチを使うように、当番を、かんたんに使う。
大隊の内務検査。
二日目か三日目に上る二つの饅頭が、重大な意義をもつ。
2月14日
飛行場ノ赤イ旗ガ
風ヲ待ッテイタ。
2月15日
中隊当番下番。
せんたくをしていたら、雲が白い粉をまいてよこした。
風呂から出てきたら、吹雪になっていた。
野村からはがき。
・・・・・・・・・・・・・・・・
寒い筑波。
中隊当番の浩三さん、「ごくろーさん」という言葉ももらえないのでしょう。
「野村」とは、「野村一雄」さん宇治山田中学の同級生で、「伊勢文学」同人。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html
この筑波日記がはじまる直前の1943年12月、浩三さんは伊勢に帰郷している。
そのとき、偶然にも野村一雄さん、中井利亮さんも入隊を目前にして、帰郷されていた。
「書斎に三人枕を揃えて、夜更け迄、寝床の中で最後の別れを惜んで、語り明した」
(野村一雄さん)
戦後、復員した野村さん、中井さん、土屋さんが集ったときの思い
「竹内よ。一時も早く帰ってこい。私達三人の気持は、何時もこんな気持で待ちうけている。
死んでいたとしても、私達のお互いの魂の内に、常に語りながら、彼は永遠に生きる、
生かさねばならぬと言う気持が私達三人の気持を、つつんでしまった。」
(1947年 伊勢文学より 野村一雄さん)
私は、これを読むといつも泣いてしまう。
全文は、以下にあります。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html
by anzu-ruyori
| 2012-02-12 23:50
| 浩三さん(竹内浩三)