中隊長は刀を抜いて子どもをおっかけた★竹内浩三★筑波日記
2012年 05月 26日
昭和19年
5月22日 【月曜日】
水戸へ射撃にゆく用意をした。
ひるから出かけた。毛布を二枚もっていた。
機関銃がくそ重たくて、全身汗であった。
北条から汽車にのった。土浦で、一時間ほど待った。
ここに中井利亮がいる。そのことばかり考えていた。
汽車の中で、夕食になった。
赤塚でおりて、三キロほど汗をかいた。小学校の講堂へ泊まった。
5月23日 【火曜日】
射撃であった。天気はよかったけれども、涼しかった。
午前中は、監的濠にいて、的をごとん、ごとんまわしていた。
ひるから、キカン銃を射った。
100点マン点で36点しか当たらなかった。35点が合格点であるから、よいようなものの。こんなまずい点は、いままで、ぼくは射ったことがない。ぼくは、射撃はうまいのである。
日がくれて帰った。
赤塚の駅前で、子供が軍隊をよこぎったと云って、中隊長は刀を抜いて、子供を追っかけた。
本気でやっているのである
その子供の一生にうちで、これが一番おそろしかったことになるであろうと思った。
寝たのは二十四時すぎであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中井さんは、宇治山田中学の同級生。
早稲田大学文学部2年時、学徒出陣。
1944年12月宇佐海軍航空隊に少尉として任官。
茨城 百里原航空隊にて終戦をむかえる。
阿川弘之氏の「雲の墓標」に、宇佐海軍航空隊のことが詳しい。
「雲の墓標」は映画にもなっているようだ。
5月22日 【月曜日】
水戸へ射撃にゆく用意をした。
ひるから出かけた。毛布を二枚もっていた。
機関銃がくそ重たくて、全身汗であった。
北条から汽車にのった。土浦で、一時間ほど待った。
ここに中井利亮がいる。そのことばかり考えていた。
汽車の中で、夕食になった。
赤塚でおりて、三キロほど汗をかいた。小学校の講堂へ泊まった。
5月23日 【火曜日】
射撃であった。天気はよかったけれども、涼しかった。
午前中は、監的濠にいて、的をごとん、ごとんまわしていた。
ひるから、キカン銃を射った。
100点マン点で36点しか当たらなかった。35点が合格点であるから、よいようなものの。こんなまずい点は、いままで、ぼくは射ったことがない。ぼくは、射撃はうまいのである。
日がくれて帰った。
赤塚の駅前で、子供が軍隊をよこぎったと云って、中隊長は刀を抜いて、子供を追っかけた。
本気でやっているのである
その子供の一生にうちで、これが一番おそろしかったことになるであろうと思った。
寝たのは二十四時すぎであった。
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中井さんは、宇治山田中学の同級生。
早稲田大学文学部2年時、学徒出陣。
1944年12月宇佐海軍航空隊に少尉として任官。
茨城 百里原航空隊にて終戦をむかえる。
阿川弘之氏の「雲の墓標」に、宇佐海軍航空隊のことが詳しい。
「雲の墓標」は映画にもなっているようだ。
by anzu-ruyori
| 2012-05-26 21:30
| 浩三さん(竹内浩三)