逡巡のとりどり@京都


by anzu-ruyori
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カテゴリ:私のプロフィールです( 1 )

いまだ定まらぬもの

おそくなりましたが、はじめましての方もこられるので
プロフィールなんて、書いてみました

あんず と よんでください

京都市に すんでいます

好きなことは、本をよむことです 


1962年(昭和37年)12月14日 大阪府堺市の小さな助産院で 私は生まれた。

  当時暮らしていたのは、木造二階建ての小さなアパート。
6畳一間に共同の炊事場、手洗い。おむつをほすとつららになったそうだ。
時折、向かいの瀟洒な一軒家から流れてくるクラッシックをききながら、
母は、七輪で魚を焼いていたという。
 この頃の記憶は私にはまったくないのに、イメージで記憶しているような気持になっている。

  2年後に、弟が生まれ、姉が幼稚園に通う頃、父の働く鉄鋼工場の敷地内の平屋に転居した。二間の和室と土間の台所、お風呂、家の前は子どもの遊び場にはちょうどいい大きさの広場。母は、十姉妹を飼った。
 奥の間に、布団を並べて寝たが、母がよく枕元で編み物や、繕い物をしていたことを覚えている。編み機のジャージャーという音は子守唄のように、眠りにいざなってくれた。

 母方の祖父が、その鉄鋼工場の守衛をしていたので、夕方、うちに立ち寄り母がお盆に用意した冷や酒と、簡単なつまみで、玄関のあがりかまちに座って、しばらく過ごすのが常だった。

 私が、子どもを産んだ頃 父と母が「子育てで困ったことなんかなかったけどなあ」と、心底いっていたので、びっくりしたことがある。写真や、想像でしかわからないけれど、決して裕福とはいえない暮らしで、次々子どもが生まれ、とまどいや迷いがなかったのだろうか。
 「もうどうしようもない気持」と数行だけかかれた母の育児記録ノートをみたことがある。そのときの気持は、もう記憶のかなたなのだろうか。短気で口調の荒い父の怒鳴り声が、響く事もあったのに…。

  小学校2年ごろ、両親が近くの建売住宅を買った。2階建ての家がうれしくて、友達をたくさん呼んだ。最近 知ったのだが、この頃 父は、和歌山の新工場に赴任していて、一週間に一度しか帰ってこなかったそうだ。約2年間。そのことを、姉や弟は覚えているし、さびしかっようだが、私にはまったく覚えがない…。

18歳ごろ、また近くの中古住宅に引っ越した。その頃には、家族よりも自分のことで忙しく、家の印象は少ない。今も、夢にみるのは、小学生の頃住んでいた家だ。

 24歳で、突然 恋人の住む京都で暮らしだし、その後結婚。伏見で、大きな家に四世帯とたくさんの猫と暮らしていたこともある。飲食店をはじめて、左京区に転居。離婚したときも、左京から離れることは考えられなかった。はじめて借りた部屋の住所を、本籍地にした。

 

結婚して商売をしていたとき
 こどもといっしょにサザエさんをみて 
  ゆっくり晩御飯を食べたいという夢があった
   小さなアパートで、それが かなった

固定電話をひいて、新聞をとって、
 お風呂のある部屋に住みたいなと思った
  大文字のみえるハイツに引っ越した

公営住宅に入居して、家賃負担を軽くしたいと思った
  3年たって、府営住宅に当たった


                    希望
 
                 それはいつも
                   ほのかで

               そうなったらいいなって
                   ほわんと
             ながく思っていることのほうが
                叶うような気がする


                いいこととわるいことを

                 くりかえし 繰り返して

                   ここまできたよ

                    これからも

               死ぬまで 生きてみようと 思う

               名も無く 貧しく スチャラカに ♪



            こんなサダまらぬ私です どうぞ よろしく
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by anzu-ruyori | 2006-01-22 23:33 | 私のプロフィールです