逡巡のとりどり@京都


by anzu-ruyori
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九州の旅★筑豊編その2

田川伊田駅前で、「フィールドスタディ」のみなさんと合流。
スタッフの方々もいれて、25名ほどの関西各地とその他から参加された人たちとマイクロバスに乗り込みました。

 講師は犬養光博さん 
 日本キリスト教団福吉伝道所の牧師として46年間筑豊に暮らしてこられた方。同志社大学在学中に、閉山炭鉱地区の子どもたちと過ごして卒業するとその足で妻 ともこさんと一緒に福吉に移住された。
この日の夜、宿舎で1965年ごろのNHKドキュメンタリーをみせていただいたが、大型トラックの運転手をしながら、夜は伝道所で子どもたちの勉強会や聖書を読む会をされていたようすに、頭が下がりました。今年3月に、妻ともこさんの意志を尊重して、長崎に移住されたそうです。
 犬養さんは、二日目の朝に「(筑豊を案内するのは)きょうを最後にするつもりです。」といわれた。「現場」にいなければできないことがある。筑豊で掘られているものをその現場にいるものが掘るしかない。
 
1炭鉱住宅の変化

炭鉱労働者たちの住宅は、炭住(炭鉱住宅)と呼ばれていました。
現存している炭住がバスの中から見えました。
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解体が決まったそうです (9月24日 読売新聞 )

田川市の松原地区に残っている炭鉱住宅4棟(計14戸)が近く解体されることになり、住宅をしのぶイベント「さようなら、松原炭住」が23日、既に解体された同地区の炭鉱住宅跡地で開かれた。かつて炭鉱に従事した人たちが集まり、石炭産業でにぎわった頃の生活を思い出しながら昔話に花を咲かせた。

 有志で作る実行委(村上博士代表、約15人)が市民に炭鉱住宅の記憶を残してもらおうと主催。会場では、同地区などで昭和30年代に撮影した炭鉱住宅などの写真パネル約30枚や、市内の二本煙突の手前に住宅がずらりと並んだ様子を描いた絵約15枚も飾った。元鉱員による体験談の披露や炭坑節の総踊りなどもあった。

 同地区の炭鉱住宅で20年以上暮らしていたという香春町の男性(79)は、「子どもの頃、炭鉱住宅の前でメンコやコマで遊んだ事が思い出されます」と写真を見ながら懐かしんでいた。

 同市にはピーク時、6130戸の炭鉱住宅があったといわれる。市は1973年から、空き家になった炭鉱住宅を解体。市営住宅への建て替えを実施している。ここ数年は歴史的価値が見直されたことなどから一時的に凍結されていたが、財政的な理由などから市は近く、解体に着手する。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/fukuoka/20110924-OYS1T00341.htm


建て替えられて、市営住宅に。
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かつての炭鉱労働者たちは、今 生活保護を受けている人が多いとのこと。



2朝鮮人炭鉱殉職者の碑 「寂光

1975年、みかん箱にいれられた遺骨が発見された。包まれた布には金や朴と書かれていた。
寂光とは、お念仏の「常寂光土」- 常にやすらかな光に満ちた世界 -からとられたとのだが、なんだか寂しい気持ちがしました。安らかに眠られているだろうか、この地で。
 
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3田川市石炭歴史博物館

犬養さんが博物館を見学する前に、「朝鮮人の労働について記載があるか気をつけてみてください」といわれた。

入り口の「炭鉱公園案内図」には 真新しくA B C の表示が、貼り付けられている。
A 韓国人徴用犠牲者慰霊碑
B 田川地区炭鉱殉職者慰霊の碑
C 強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑

以前は、表示がなかったそうだ。
前回、犬養さんが案内をされたとき、田川市議会議員の人が参加者におられ、その後要請されたそうだ。
以下のサイトには、表示のなかった案内図が掲載されています。
http://www.halmoni-haraboji.net/exhibit/report/201001fieldwk/page18.html




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韓国人徴用犠牲者慰霊碑 (1988年建立)



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碑の足元には、北を示す方位板が。魂が迷わず祖国に向かえるように。

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慰霊碑は、筑豊の地を見下ろす一番高いところにあります。
慰霊碑がみている筑豊の風景。



炭鉱歴史博物館には、朝鮮人の記述はまったくありませんでした。
世界記憶遺産に登録された山本作兵衛の絵や文章にも残っていません。
作兵衛さんの絵は、絵巻物のようで私ははじめから、違和感がありました。
まっくろな炭鉱夫を描かなかったのは、作兵衛さんの愛情だったのでしょうか。

私は、なんだか「近代化遺産」の大号令に鼻白んでしまいました。
犬養さんによると、博物館にあるように機械化が進んだのは大手の炭坑で、小ヤマといわれる中小炭鉱は明治時代のように人を機械のように使う状態が最後まで続いていたそうです。

帰ってきてから、上野英信の「追われゆく坑夫たち」を読んでよけいそう思いました。
昭和30年代の小ヤマの労働者たちの姿に驚愕しました。労働組合にも見捨てられて飢餓状態になっていたのです。

4日向墓地

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そこは、道路から小山に入ってしばらく歩いた場所にありました。
案内がなければこれない、表示板もなにもないところでした。


犬養さんは自分が死んだときはこの地に散骨してもらいたいと話されました。
日本人である犬養さんが、そこまで朝鮮人に心を寄せるのはどうしてだろうと思いました。

この地に朝鮮人が埋葬されたというのは、伝承しかなく、本当にこの石が墓石で、骨が埋まっているかは、わからないし、「この地には埋葬されていない」という証言もある。しかし、私はそういうことは関係ないと思った。ここでないにしても、数え切れない朝鮮人たちがこの筑豊で虐げられてなくなったという事実は、変わらない。どの地であっても鎮魂の場所だと思う。そして、この石がそのシンボルなのであれば、私はここで祈りたいと。

このあと宿泊地 筑豊ハイツへ。九州の旅★筑豊編その3につづきます。

以下は、犬養光博さんが案内された 
「在日コリアン一世の炭鉱労働を学ぶ 下関・筑豊フィールドワークの旅」
  2010年1月14日(木)~16日(土)
の記録です。参考にさせていただきました。
http://www.halmoni-haraboji.net/exhibit/report/201001fieldwk/page00.html

こちらは、古絵葉書でみる三井田川炭坑。炭坑節の世界ですね。
http://www.asocie.jp/archives/fukuoka/tagawa/mitsui.html
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by anzu-ruyori | 2011-09-26 18:50 | 平和 自由 

九州の旅★筑豊編その1

2年ぶりに、九州にいってきました。
筑豊と太刀洗に。どちらも私が出会ったおばあさんにゆかりある土地です。

「筑豊」は、今まで私にはまったくなじみのないところでした。
8月のはじめ竹内浩三の幼馴染みの服部百代さんの訃報を知った翌日に、「炭鉱労働者のくらしと歴史を学ぶ旅IN筑豊」というスタディツアーの案内をみつけました。
服部百代さんは、三重県津市在住でしたが、昭和19年「奉仕隊」として筑豊の明治鉱業平山炭鉱で
働いていたことがあり、そのとき朝鮮人の少年に助けられたという話を伺ったことがあったのです。
「これは百代さんのかわりに筑豊にいけということか」と思い、休みをとりました。

百代さんの文章と短歌→http://blog.takeuchikozo.com/

「太刀洗」のことを知ったのは、訪問介護で伺ったおばあさんのおうち。
入院中の夫さんは「太刀洗飛行場」の軍曹でした。
戦闘機の空中戦の絵が壁にかけてあり、本棚にあった「太刀洗飛行場物語」(桑原達三郎著 1981葦書房)と「女子挺身隊甘木日記」(寺西マリコ著 1983 石風社)をお借りして読んで以来、一度 いってみたいと思っていたのです。
入院中の夫さんは、昨年年末になくなり、おばあさんもこの夏入院されたままです。

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往復夜行バスの九州行。京都駅発のバスに乗り遅れそうになるわ、台風の大雨で高速道路通行止めで、遅れるわ、どきどきでしたが無事関門トンネルを通りすぎました。
スタディツアーの集合地点は「JR田川伊田駅」なので、高速バスを小倉で下車。

お電話で連絡していた「在日人権資料センター」へ地図を頼りに向かった。

在日大韓基督教会 小倉教会は、崔昌華(チォェ チェンホア)牧師の名前裁判や指紋押捺拒否の闘争の発信地であり、崔牧師が急死されたあと、人権資料センターとして開設されました。
早朝の訪問を歓迎してくださった朱文洪(チュ ムンホン)牧師と案内解説をしてくださった金貞子(キム チョンジャ)さんに、心から感謝します。
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崔牧師の人権獲得闘争の資料が主かと、予想していたら、筑豊で働いていた朝鮮人労働者の写真がたくさんあり、びっくりしました。ノンフィクション作家の林えいだいさんからの提供写真が多いとのことでした。
 まさに、金貞子さんのお父さんは、1934年に強制連行で九州に連れてこられた方でした。炭鉱住宅で育った金貞子さんは、仕事を終えた労働者たちが金つり(ふんどし)姿で、貞子さんの家の前に並んでいる光景を毎日見ていたそうです。お父さんの作るマッコリがおいしいので、労働者たちが真っ黒な体のまま、平てん一枚(酒のあて)を手にもって列を作るのです。貞子さんのお姉さんが、看板娘でお酒をひしゃくで汲んでいたそうです。

 
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サハリンから沖縄までの朝鮮人たちの苦難の写真をみて、知らなかったことの多さにびっくりしました。改めて、日本と朝鮮の歴史に向き合わなければいけないと思いました。
奥の部屋には、ナヌムの家のハルモニたちの絵の複製が展示されていました。亡くなられたハルモニの絵は、今も私に話しかけているようでした。

小倉駅に戻って、JRで田川伊田駅まで。一時間半ほどの列車の旅。車窓の風景と知らない駅名にわくわくしながら、はじめての筑豊へ。

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日田彦山線 田川伊田駅 





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←香春(かわら)駅からみえる香春岳。日本セメントの採掘場。
空からみると広大なクレーターがみえるそうです。
莫大な自然破壊の上に現代がなりたっている現実を突きつけられました。




↓田川伊田駅、かつて炭鉱の町としてにぎわったいたちょっとレトロな駅。
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幹線道路に面した長野写真館
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いよいよスタディツアーはじまり。筑豊編その2につづきます。
 

 
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by anzu-ruyori | 2011-09-26 11:33 | 平和 自由 
奈良県宇陀市で、農業をしている友人の田んぼに鹿がやってくる。

台風が通りすぎたあと、
鹿よけのネットに角がからまった雄鹿を、友人は解体して命をいただくことにした。

詳細は、ブログ 「山と水と木の通信」に、
http://udashika.exblog.jp/

友人が解体した雄鹿の命のかけらを、いただいて私は命をつないでいく。

山に、圧倒的な緑に包まれたいとおもいながら、その命の数々に圧倒され、
傍観するしかない私は、都市の人。

命を軽んじて、便利な生活に依拠している。お金が解決する世界に甘えている。
そういう世界の人が、原発をすすめたのだと思う。
私だ。

雄鹿の命の声が、私には聞こえない。

3.11から、半年
9.11から、10年

私はかわっていけるだろうか・・・

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by anzu-ruyori | 2011-09-10 00:33 | 奈良 田んぼのこと