逡巡のとりどり@京都


by anzu-ruyori
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<   2012年 02月 ( 20 )   > この月の画像一覧

「五月のように」さんより転載させていただきます。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html

なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
筑波日記 全文と写真版を参照させていただいています。

http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=510&cPath=177_222

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1944年 昭和19年


2月27日

 朝また壕ほりのつづき。
 ひるから対空射空(対空射撃?)
 髪の毛と爪と、29日までに切って、名前を書いて入れておけと云って、封とうをくれた。

2月28日

 風が、飛行場の上をたたきつける。窓をしめておいても、床にほこりがつもる。
 このごろ、まいにちのようにこの風が吹く。
 筑波嵐と云うのはことばだけで、実際にはない。下から吹き上げている。

 風の中で対空射撃であった。
 息をするまもないほどいそがしい。
 
 あさっての外出は出られない。その日だけ、炊事の永吉一等兵と交替と云うことになった。
 寝ようと思っていたら、岩本准尉に呼ばれた。地図を書いてくれと云う。ねむたいところであったので、実に無責任に30分で仕上げた。

2月29日

 起きるとすぐに銃剣術であった。
 松岡中尉に呼ばれてゆくと、移動式トーチカと云う、練習用具の設計図を書いてくれと云う
 つまらぬ仕事であったが、おかげで風の中の対空射撃をまぬがれた。

 ひるから、演習の整列しようかと思っているところへ、空襲けいほうがかかった。
 その動作がおそかったと云うので、中隊長が火のように怒った。
 怒っているうちに、ますます腹が立ってくるらしい。はじめと別なことで怒り出してくる。

 夜間演習があったけれども、編成にもれた。
 寝るころになって、使役に出された。高射托架を壕に埋めた。

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 浩三さんの「髪の毛と爪」は、筑波の風に吹き飛ばされたのだらうか。

 演習、使役に追われて、2月がおわった。

1944年、うるう年。オリンピックイヤーであるが、戦争により中止。開催地はロンドンであった。
戦後、1948年に開催されている。

また、その4年前の1940年大会は東京での開催が予定されていたが、日中戦争の影響により日本が辞退し、ヘルシンキでの開催も検討されたが戦争拡大により中止となった。

ことし、2012年 第30回オリンピックが、ロンドンで開催される。
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by anzu-ruyori | 2012-02-26 22:09 | 浩三さん(竹内浩三)
「五月のように」さんより転載させていただきます。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html

なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
筑波日記 全文と写真版を参照させていただいています。

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1944年 昭和19年


2月24日

 朝起きると、銃剣術。
 朝飯がすむと、銃剣術。
 これはかなわぬと思っていたら、ひるからも銃剣術。

 そこへ、三島少尉によばれた。行くと、飛行機の画を書いてくれ。カーチスホーク。
 かいた。三十分ほどで書けた。銃剣術がいやで、事務室でさぼっていた。
 夕方また銃剣術。汗をかいた。

2月25日

 朝起きると、銃剣術。
 午前中は、対空射撃の学科。
 いねむりが出てよわった。学科というといねむりする。
 中学校のころ、教室でいねむりするやつを、妙なやつだと思ったが、そのねむさがわかった。

 中村班長に呼ばれた。照準環の図を書いてくれと云う。かんたんなものであったが、
 なるべく時間をかけて書いた。そのうち、みな、壕掘りに出かけて行った。
 ものすごい風であった。

 照準環は、なぜ楕円形にしてあるのか、そのわけを考えていたら、次のごとき案を得た。
 それを三島少尉に持っていったら、早速作ろうと云うことになった。
 それで、その設計図を書いてもってゆくと、黒江中尉がいて、それはもうすでにできていて、
 どしどしつくられていることを云った。
 発明などと云うものは、たいていこんなものである。

2月26日

 昨日の壕掘りのつづきを、朝五時半に起きてやりに行った。
 飛行場のはしで、いつかの雪の朝の防空演習のとき銃をすえたところであった。
 ひるまでかかった。

 ひるから、対空射撃の演習。

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銃剣術・・・、白兵戦・近接戦闘において、先端に銃剣を装着(着剣)した小銃を武器にして敵を殺傷する武術 

上官によばれて、事務所で絵や設計図をかくことをおおせつかって、訓練をぬけることができた浩三さん、ラッキーでしたね。

三嶋さんの証言にあるように、浩三さんはちょっとだけ「特別扱い」されていたところも
あったのです。たしかに器用だったせいもあるけど、伊勢の竹内呉服店からの「つけとどけ」の
力もあったかもしれません。

浩三さんの伯父さんにあたる二つ年上の「竹内敏之介」さんが入営した京都の部隊には、
竹内呉服店の番頭「省三さん」が、面会のたびに反物や洋服地をもっていったそうです。
そのおかげか、敏之介さんは、工兵部隊に配属されて前線で戦うことが少なかったようです。
インパール作戦に参加し、捕虜となり2年後に復員されました。

工兵部隊には、大工さん、表具師さん、石屋さんなど、職人さんが多く配属されている部隊でした。

1980年に建立された「戦死ヤ アワレ」の詩碑は、そのご縁で京都の石屋さんが制作されたそうです。
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by anzu-ruyori | 2012-02-24 23:34 | 浩三さん(竹内浩三)
「五月のように」さんより転載させていただきます。
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なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
筑波日記 全文と写真版を参照させていただいています。

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1944年 昭和19年

2月23日

  ああ、宮沢賢治は銀河系気圏へと昇っていった。
  昭和8年9月21日午前1時30分。
  うたをうたい
  こどもにはなしを聞かし
  肥料を発明し
  とまとを作って
  なんみょうほうれんげきょ
  昭和十九年
  ぼくの日本はアメリカと戦う
  アメリカがぼくの日本をおかしにきている
  ぼくは兵隊
  風の中
  腹のかなしみ
  腹のさびしみ
  それを云わず
  ただ もくもく
  最下層の一兵隊
  甘じて
  あまんじて
  この身を
  粉にして
  ああ うつくしい日本の
  国をまもりて
  風のなか 風のなか
  くゆるなし
  くゆるなし


(ロシア語で)もうこれ以上生きられない。

 もうなにも食べられない。
 谷田孫平と、林翁寺の境内の日向で、空豆、かじっている。
 外出するたびに、本屋をのぞくかなしさ。読めもしない本を、買いたしと。
 谷田孫平と二人で、出かけた。吉沼、うまい具合にまんじゅが買えた。宗道でうどん。

 下妻の時計屋で、聖歌合唱「ああ、ベツレヘムよ」のレコードを見つけ、
 かけておくれ、こわれています。

 夜、演芸会。

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きょうは外出。

部隊をはなれると空想の世界に心ひろがる浩三。


宮沢賢治へのあこがれ

自分の現実

「くゆるなし くゆるなし」といいながら、

「これ以上生きられない」と、ロシア語でかく浩三・・・

かつて、ヴィヴェ ジョアイユゥ(仏語 歓喜して生きよ)と、いった浩三なのに。

「林翁寺(りんおうじ)」下妻 

検索するとありました。場所は変わっていないのかなあ。いってみたい。
http://www.mapion.co.jp/m/36.18122_139.9615938_8/v=m5:%E6%9E%97%E7%BF%81%E5%AF%BA/


 映画の一場面のような、「かけておくれ」「こわれています」が、印象に残る。
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by anzu-ruyori | 2012-02-24 01:06 | 浩三さん(竹内浩三)
2月16日、伊勢まで日帰りお墓参り登山に。
5度目の登山。6度目の墓参。

冬枯れの朝熊岳道 イシコロノミチ
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竹内家のお墓と詩碑
大きな榊(or しきみ?)と椿がお供えされていました。
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浩三さんのお墓に、ゴールデンバッドとバレンタインのハートチョコ
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好天であったが、富士山はみえず。残念。
茶屋のおばさんにきくと、「ことしは、2回みえました。」とのこと。
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登りは、シジュウガラ(四十雀)、帰りはウグイス(鶯)が鳴いてました。

「モウジキ、ハルヤ」ね、浩三さん!。

宇治山田駅まえの「割烹 大喜」 なんと!建て替え 11月に新装オープンとのこと。
「竹内呉服店」の看板だったといわれているこの看板の行く末は・・・?

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まんぷく食堂で伊勢うどんをたべて、帰路につく。
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by anzu-ruyori | 2012-02-21 21:52 | 浩三さん(竹内浩三)
「五月のように」さんより転載させていただきます。
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なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
筑波日記 全文と写真版を参照させていただいています。

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1944年 昭和19年

2月19日
 どうにでも、なるようになれと、考える日であった。

2月20日

 あした、練習部長の査閲があるので、その軍装けんさが、朝あった。
 ひるからは、大掃除。

2月21日

 査閲があると云うので、一時間も早く起きて、いそがしいこと、この上もない。そんなに大さわぎしたので、どんな査閲かと思ったら、はなはだあっけない。査閲とか検査などはたいていこんなもんで、泰山鳴動して鼠一匹と云うヤツだ。ひるからは、結局なにもなかった。こんなことはめずらしい。

2月22日

 夜、号令調整。
 竹内の号令はしまりがないと。
 枯枝のすいたところに、星が一つ。

 明日は、また外出できる。表でみると、班内でぼくが一番よく出ている。
 一日中、銃剣術。ひるから、中隊の試合。10はやって2本勝つ。一番びり。

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査閲
(1)実地に調査して検閲すること。
(2)軍事教練の成績を実地に調べること。

「査閲」で検索すると、面白い文章を発見した。
太宰治である。

太宰さんも軍隊には、そぐわないヒトであったろう。

「鉄面皮」

(前略)
先日も、在郷軍人の分会査閲に、戦闘帽をかぶり、巻脚絆をつけて参加したが、私の動作は五百人の中でひとり目立ってぶざまらしく、折敷(注 オリシキ 左足のひざを立て、右足を折って腰を下ろした構え)さえ満足に出来ず、分会長には叱られ、面白くなくなって来て、おれはこんな場所ではこのように、へまであるが、出るところへ出れば相当の男なんだ、という事を示そうとして、ぎゅっと口を引締めて眥を決し、分会長殿を睨んでやったが、一向にききめがなく、ただ、しょぼしょぼと憐憫を乞うみたいな眼つきをしたくらいの効果しかなかったようである。

私は第二国民兵の、しかも丙の部類であるから、その時の査閲には出なくてもよかったらしいのであるが、班長にすすめられて参加したのだ。(中略)
私はその日は、完全に第二国民兵以外の何者でもなかった。しかも頗る、操作拙劣の兵である。私ひとり参加した為に、私の小隊は大いに迷惑した様子であった。それほど私は、ぶざまだった。

けれども、実に不慮の事件が突発した。査閲がすんで、査閲官の老大佐殿から、今日の諸君の成績は、まずまず良好であった。という御講評の言葉をいただき、
「最後に」と大佐殿は声を一段と高くして、「今日の査閲に、召集がなかったのに、みずからすすんで参加いたした感心の者があったという事を諸君にお知らせしたい。まことに美談というべきである。たのもしい心がけである。もちろん之は、ただちに上司にも報告するつもりである。ただいま、その者の名を呼びます。その者は、この五百人の会員全部に聞えるように、はっきりと、大きな声で返辞をしなさい。」
 まことに奇特な人もあるものだ、その人は、いったい、どんな環境の人だろう、などと考えているうちに、名前が私の名だ。

「はあい。」のどに痰がからまっていたので、奇怪に嗄れた返辞であった。五百人はおろか、十人に聞えたかどうか、とにかく意気のあがらぬ返事であった。

何かの間違い、と思ったが、また考え直してみると、事実無根というわけでもない。私はからだが悪くて丙の部類なのだが、班の人数が少なかったので、御近所の班長さんにすすめられて参加する事になったのだ。枯木も山の賑わいというところだったのだが、それが激賞されるほどの善行であったとは全く思いもかけない事であった。

私は、みんなを、あざむいているような気がして、浅間しくてたまらなかった。査閲からの帰り路も、誰にも顔を合せられないような肩身のせまい心地で、表の路を避け、裏の田圃路を顔を伏せて急いで歩いた。その夜、配給の五合のお酒をみんな飲んでみたが、ひどく気分が重かった。

(後略)

青空文庫より
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2284_15076.html
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by anzu-ruyori | 2012-02-21 01:04 | 浩三さん(竹内浩三)
「五月のように」さんより転載させていただきます。
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なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
筑波日記 全文と写真版を参照させていただいています。

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1944年 昭和19年

2月17日

 あしたの、内務検査のための大そうじ。干しておいた、じばんこしたを盗まれた。


2月18日

 内務検査。
 ひるから、かけあしで大砂へ行った。
 じぶんで盗まれたものは、じぶんで始末せいと、みんなせめたてる。
 しかたない。泥棒を決行する。鼻歌で、それを行う。なきそうな顔であった。

 高木一等兵が足で入室した。飯をはこんでやるのは、ぼくである。

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じばんこした・・・襦袢(シャツ)袴下(モモヒキ ズボン下 パッチ)か?


「50年目の日本陸軍入門」(文春文庫)によると

軍隊での泥棒は日常茶飯的だったとのこと。員数検査という持ち物ケンサがあり、
帽子から巻き脚絆(ゲートル)まで、ひとつでも「天皇陛下から頂いた」ものが
なくなっていたら、制裁があったからだ。

じばんこしたの員数ケンサがあったからどうかわからないけど、仲間たちから
はやしたてられて、泥棒をして泣きそうな浩三さんが、かわいそうになる。

高木さんが「足で入室」とは、足の怪我か?
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by anzu-ruyori | 2012-02-19 16:56 | 浩三さん(竹内浩三)
「五月のように」さんより転載させていただきます。
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なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
筑波日記 全文と写真版を参照させていただいています。

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1944年 昭和19年

2月16日

 まだくらいうちに、ラッパが鳴った。
 空襲警報のラッパであった。
 アスピリンで真っ白な飛行場を
 分解はん送でよこぎり
 池のそばに銃をすえた。
 池から乳のように湯気が立ちのぼっていた。
 足が冷たいので足踏みした。
 やがて、もも色の朝になった。

 それで外出がおくれた。大きなパンをもらって、亀山と出かけた。
 十一屋さんでえんぴつとナイフを買った。
 バスにのった。
 四つ角のところで、サーカスのジンタが聞こえた。

 雪晴れの畑は、ススキわらがもえ上がりそうに暖かい。
 おじいさんとおばあさんと子供がバスを眺めていた。

 うごかない水にうごかない船があった。
 水のない川には、雪があった。

 宗道の山中さんでかき餅をよばれた。
 ウドンやへ入ったら、小寺班長が寝ていた。心安そうにしている。

 鬼怒川べりに出た、赤城山が見えた。あの山の下で演習していた。
 川べりのながい道で便意をおぼえた。
 日向ぼっこしている娘のうしろに、フランス人形があった。
 フランス人形に、便所の拝借を申し出た。
 日向ぼっこの読んでいたのは、アンドレ・ジイドであった。
 ボクは、はなはだまぬけな一等兵であった。

 下妻で、いろは寿司へ入った。
 バスの女の子が二人いた。
 まんじゅ屋へ行ったけれどもなかった。
 たみ屋で、メンチボールとビフテキを喰った。
 同じように宗道まわりでかえった。

 土屋からはがきが来ていた。土屋も中井も予備学生に合格したことが書いてあった。
めでたいと返事したけれども、なんとなく、淋しい気がして、気がふさいだ。

それにつづいて、大林信子から手紙であった。日出雄が、久居へ補充兵として入ったことが
書いてあった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

冬景色の筑波 風景スケッチがつづき、
そして やっぱりたくさん食べる浩三。

亀山さんと静かで楽しい外出だったようですね。

土屋さん、中井さんは、伊勢「宇治山田中学」の同級生。
「予備学生」とは、幹部候補生のことか?
大学卒業者は、試験をうけ、合格すると下士官候補の「幹部候補生」となる。
土屋さんも中井さんも、外地に出兵することなく、戦後復員されて、
「伊勢文学」で、浩三の作品を発表することとなる。


★追記 「戦死やあわれ」(岩波文庫)より 小林察さんの解説。
予備学生・・・「海軍飛行予備学生」
大林信子・・・東京での浩三のお目付け役であった大林日出雄の夫人
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by anzu-ruyori | 2012-02-15 23:17 | 浩三さん(竹内浩三)

ユンドンジュ 命日★

尹東柱(ユンドンジュ)さんが、福岡の拘置所で亡くなってから、67年となる。
2月16日が命日。

死のとき、大きな声で叫んだが、日本人看守には「なにやら、わからぬ言葉で叫んだ」としか
聞かれなかった。

ユンドンジュが、最後に叫んだ言葉は、キリストが十字架の上でつぶやいた言葉だろうか。

「神よ、どうして私を見捨てたもうたか」

それとも、

「アボジ オモニ 」 (お父さん、おかあさん)だっただろうか。 

「トウチュウシボウ、シタイトリニコイ」と電報がうたれたそうです。

遺骨をもってかえったアボジは、その墓に「詩人 尹東柱」と刻んだ。

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今年も左京区田中高原町 武田アパート跡の詩碑で、追悼式があります。


私は、休みをとって福岡にいこうとおもっていたのですが、福岡拘置所前の慰霊式は
2月12日におこなわれたとのことでしたので、久しぶりに伊勢まで日帰りでいってきます。

朝熊山の上から、ユンドンジュさんと浩三さん、二人の「生前は詩人となれなかった人」に
想いをはせることとします。


富士見台から富士山みえるかなあ~
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by anzu-ruyori | 2012-02-15 00:18 | 平和 自由 
「五月のように」さんより転載させていただきます。
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なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
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1944年 昭和19年

2月12日

 全員五時半起床だから、こちらはすくなくとも五時には起きなければならなかった。
そんなに早く起きて、一体なにをするのかと思ったら、大掃除であった。

 当番を交替までして、午前中体力検査であった。

 百米 16秒
 懸垂  3回
 千五百米 8分32秒
 幅とび 3.3米

 『座右銘 365撰』の中に

「百発百中の砲、能く、百発一中の敵砲 百門に抗す」と云うようなのがある。

読んだとき、これは算術かと思った。 100/100×1=1/100×100

 近頃、どこからも、とんと、たよりがない。

 ごくろーうさんと云うことばは、人の気持ちを温める。軍隊では、とくに必要だ。

2月13日

 マッチを使うように、当番を、かんたんに使う。
 大隊の内務検査。
 二日目か三日目に上る二つの饅頭が、重大な意義をもつ。

2月14日

 飛行場ノ赤イ旗ガ
 風ヲ待ッテイタ。


2月15日

 中隊当番下番。
 せんたくをしていたら、雲が白い粉をまいてよこした。
 風呂から出てきたら、吹雪になっていた。
 野村からはがき。

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寒い筑波。

中隊当番の浩三さん、「ごくろーさん」という言葉ももらえないのでしょう。


「野村」とは、「野村一雄」さん宇治山田中学の同級生で、「伊勢文学」同人。

http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html

この筑波日記がはじまる直前の1943年12月、浩三さんは伊勢に帰郷している。
そのとき、偶然にも野村一雄さん、中井利亮さんも入隊を目前にして、帰郷されていた。

「書斎に三人枕を揃えて、夜更け迄、寝床の中で最後の別れを惜んで、語り明した」
(野村一雄さん)

戦後、復員した野村さん、中井さん、土屋さんが集ったときの思い

「竹内よ。一時も早く帰ってこい。私達三人の気持は、何時もこんな気持で待ちうけている。
死んでいたとしても、私達のお互いの魂の内に、常に語りながら、彼は永遠に生きる、
生かさねばならぬと言う気持が私達三人の気持を、つつんでしまった。」

(1947年 伊勢文学より 野村一雄さん)

私は、これを読むといつも泣いてしまう。

全文は、以下にあります。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html
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by anzu-ruyori | 2012-02-12 23:50 | 浩三さん(竹内浩三)
「五月のように」さんより転載させていただきます。
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なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
筑波日記 全文と写真版を参照させていただいています。

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1944年 昭和19年
2月11日

 けふの佳き日は、紀元節。
 寒い風がふいているのに、みんな、飛行場へ。式に、ならんでいる。
 がらんとした事務室で、ストーブをがんがんたいて、「光」をスパスパやらかしている。

 営外者だけが買える「光」を、その物品販売所へもってゆく通報の二個を三個と書きなおして、
買ったものである。この手を用いると、タバコの不自由はない。

 この週の中に、3年兵は満期すると云うデマがとんだ。
ここでは、火のないところから、よく、烟が はでにあがるから、
これも、あてにはできないけれども、もしもの場合、もしも、もし、それが本当なら、めでたい。

 ストーヴのふたをあけて、その前へしゃがんで、
タバコをすいながら、火をじっと見ているのが、すきだ。

 式がすむと、風呂が立った。
 まんじゅとようかんと、酒とするめとかずのこが上がった。
 みんな外出してしまって、事務室は閑散となった。
ひるめしを食べてから風呂へ行った。ひさしぶりで石鹸を使ったりなどした。

 帰ってくると、二班で居残り連が酒を飲んでさわいでいた。その中へよびこまれて、調子づいて、がぶがぶ飲んで、事務室へ来て、ストーブにあたったら、たちまち、まわってきた。ねむとうなって、六尺イスの上に横になったら、うとうと眠ってしまった。「あきれたやつや」そんなことを誰か云っていたようであった。

 ぞくぞく寒気がしてきた。16時であった。ストーブにあたっていても、体がふるえた。お湯をなんばいも、のんだ。するめをやいたり、餅をやいたり、食べてばかりいた。
 
夕食は、サメのおかずで大してうまくないけれども、どっさり食べた。サメのおかずがよくつく。魚の中で、サメほどまずいものはない。
 
 金魚ト眼鏡ト風琴ト
 椎ノ実
 コトバガ コトバガネェ
 眼鏡ノ
 森ノ
 コトバガネェ
 ボクノ口カラ 出テコナイ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

紀元節で、一日お休み。
よく食べて、風呂に入って、お酒ものんで・・・

でも、やりきれない浩三の気持ちが、詩になった。


紀元節 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E7%AF%80
神武天皇の即位日、明治6年に、2月11日と制定した。
1967年に、「建国記念日」として復活。
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by anzu-ruyori | 2012-02-11 16:21 | 浩三さん(竹内浩三)