逡巡のとりどり@京都


by anzu-ruyori
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昭和19年 

5月29日 【月曜日】

 営兵所の前でゴウを掘っていた。
 乾省三が准尉に会いにきたのが見えた。ぼくは、わざと知らぬ顔をしていた。

 枝村と云う四年兵の一等兵が、二年兵をあつめて、お前らには、ピチピチしたところが一つもないと説教していた。

 いつか、木俣老人が、こんどの二年兵は、実にのんびりしていて、なかなかいいケイコウだと云っていて、ぼくもそれに賛成しておいた。

 土屋、野村からたより。


5月30日 【火曜日】

 体力テストがあった。土ノウはこびで二番になった。
土が半分ほどこぼれていて軽くなったやつをかついだからであった。
前にやったときは、はこびきれず、途中で落すと云う醜態であったのである。

 それに勢いこんで、次の百メートルも本気でやったら、十六人で四番になった。


5月31日 【水曜日】

 あした習志野の演習場へ行くための軍装ケンサであった。
 中井からたよりがあった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

省三さんは、十一屋旅館にとまってきょうは手土産をもって、准尉殿のところにきたのだなあ。


木俣さんは、いいことをいうなあ~。私も賛成!
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by anzu-ruyori | 2012-05-31 21:16 | 浩三さん(竹内浩三)
5月27日 【土曜日】

 田中准尉にたのまれて、こんど、又変わったアメリカの飛行機の標識をかいた。

 きょう乾省三が面会にくるので、臨外をくれとたのんだ。まえからたのんであったのでくれた。
 (臨外・・・臨時外出)

 ひるめしを半分喰って出た。吉沼へ行く途中で、自転車にのった乾省三に会った。
 十一屋書店の二階へ上りこんだ。
 乾省三のカバンの中から、まるで、手品つかいのそれのように、たべものが出てきた。

 いなりずし、うなぎ、のりまき、にぎりめし、パイカン、キャラメル、リンゴ、ドーナツ、バター、かんぴょう、たけのこ、しいたけ。
 たべていた。

 十一屋がサイダーと親子丼をごちそうしてくれた。


 東京へ行こう。

 夕方、バスにのった。吉沼の曲がりかどで、家の軒がバスの窓ガラスを割った。

 破片が、ぼくの肩へこぼれた。宗道の山中さんでお茶を飲んだ。

 東京へきた。もう、夜なかであった。
 魚が水にかえったように、ぼくは、東京にいた。

 椎名町の大岩へ行った。たべものを出して、おそくまで、電気がついていた。

5月28日 【日曜日】

 窓を開けると、青空と、くるみの青葉であった。

 池袋で映画を見た。「怒りの海」、今井正演出。題名と出演者につられた。
 いったい、一生懸命つくる気でつくったのであろうか、いやで、いやでならないが、まァつくったと云わんばかりであった。エサが悪いとこんなものしかつくれないのか。

 どえらい、いくさをしている国の首都である。
 くらやみでは、アイビキが行われ、あかるみで、どえらい大金をもうけているやつがいる。
 月に肉の配給が五十モンメとかで、どこかで牛の舌を十皿もひとりで平らげている。
 いろんなムジュンがあるであろうが、要は、戦争に勝つことだ。

 ニッポンの国だけは、ぜったいに亡びないとは、キミ、どう考えてもムシがよすぎはしないか。
 亡ぼさないためには、それだけのことは、しなければだめだ。

 池袋のまちをもっと見たかったけれども、時間がなかった。汽車にのった。

 となりに坐った若い衆と俳句のはなしをした。たいてい相手がしゃべっていた。

 宗道の山中さんで、ちょっとキュウケイした。吉沼まであるいた。十一屋旅館で夕食をした。

 酒を飲みながら乾省三とはなしていた。よくまァ、こんなところまできてくれたと、
乾省三をありがたいと思った。

 十一屋書店へ姉から小包がきていた。こないだ送った日記のことが書いてあった。梅肉エキスやら、ジンタンやら、ふんどしやら、万金丹やら、針やら、糸やら、小包に入っていた。ありがたいことと思った。津村秀夫の『映画戦』も入っていた。
香水も入っていたが、これはどうしたらよかろう、と思った。

 乾省三は、営門のところまで送ってきてくれた。

 半月が出ていた。乾省三は、手で電気が起る懐中電燈をもっていた。ぼくは途中で野グソをした。

省三をよい人だと、しみじみおもった。

 中隊へ二十三時半にかえった。事務室で、週番下士官や当番がまだおきていた。ぼくのためにおきていてくれたのかと思ってキョーシュクしたらそうでなかった。

ブドー酒を飲んでいた。ふところのするめを出して、ぼくもブドー酒を飲んだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一泊だけのあわただしい東京行。

東京が見られてよかったね、浩三。


乾省三さんは、竹内呉服店の番頭さん。

敏之助さん(浩三さんのお兄さんの子ども、甥だが、兄弟のように育つ)のいた京都の部隊にも
面会にいっていたと、縁者の方よりお聞きしました。
上官への手みやげに、服地などをもっていかれたとか。

戦後、竹内家の縁者が上京する際に下宿を探したり、
呉服店がなくなったあとも、「番頭」として主家に仕えた人だいう。
省三さんは、「浩三さんは、自分から飛行部隊に志願していったのだから」といわれていたそうです。

「臨外」だったのに、外泊までできたのは、省三さんの手土産のおかげか。

お姉さんからの香水のことは以下に。
http://miteikou.exblog.jp/8157098/

お姉さんのお嬢様っぷりがわかるエピソードだ。

出征された夫さんへの手紙を、なにかの本で少し紹介されていたが、ものすごいラブレターだった。
たしか、自分の扇子を贈るので、自分だとおもっていつも持っていてくださいとか。

ことし、95歳になられるこうさんの健康を祈りたい。
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by anzu-ruyori | 2012-05-28 04:25 | 浩三さん(竹内浩三)
昭和19年 

5月24日 【水曜日】
 1時間起床延期であった。
 兵器委員の使役に出た。
 姉と中井利亮にたよりをした。
  キノウ土浦ノ駅ヲトオッタ
  ココニオマエガ居ルトオモッタ
  ココカラモ筑波ガ見エルトワカッタ
  オマエモ筑波ヲ見テイルトオモッタ
  オレモオマエモ同ジ山ヲ見ルコトガデキルトワカッタ
 土屋と野村からはがきがきた。

5月25日 【木曜日】

 被服検査であった。
 ひるから、演習をした。
 終夜演習であった。夜があけるまで、しゃっくりを、
 ヒョコヒョコならしながら、あるいていた。


5月26日 【金曜日】

 四時ころ、演習が終わって、六時ころから、ひるまで寝た。
 ひるから、手榴弾を放った。二十メートル。
 夜、軍歌演習をした。


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夜間演習が続く。
フィリッピンか、どこか南方に派遣されることがものころもう決まっていたのだろう。
アメリカとの軍事力の違いが歴然としていた戦地では、昼間の活動は困難だったから、
夜間の活動演習が続けられていたのか。
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by anzu-ruyori | 2012-05-28 03:58 | 浩三さん(竹内浩三)
昭和19年 

5月22日 【月曜日】

 水戸へ射撃にゆく用意をした。
 ひるから出かけた。毛布を二枚もっていた。
 機関銃がくそ重たくて、全身汗であった。
 北条から汽車にのった。土浦で、一時間ほど待った。
 ここに中井利亮がいる。そのことばかり考えていた。

 汽車の中で、夕食になった。
 赤塚でおりて、三キロほど汗をかいた。小学校の講堂へ泊まった。

5月23日 【火曜日】

 射撃であった。天気はよかったけれども、涼しかった。
 午前中は、監的濠にいて、的をごとん、ごとんまわしていた。

 ひるから、キカン銃を射った。
 100点マン点で36点しか当たらなかった。35点が合格点であるから、よいようなものの。こんなまずい点は、いままで、ぼくは射ったことがない。ぼくは、射撃はうまいのである。

 日がくれて帰った。

 赤塚の駅前で、子供が軍隊をよこぎったと云って、中隊長は刀を抜いて、子供を追っかけた。
 本気でやっているのである
 その子供の一生にうちで、これが一番おそろしかったことになるであろうと思った。

 寝たのは二十四時すぎであった。

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中井さんは、宇治山田中学の同級生。
早稲田大学文学部2年時、学徒出陣。
1944年12月宇佐海軍航空隊に少尉として任官。
茨城 百里原航空隊にて終戦をむかえる。
阿川弘之氏の「雲の墓標」に、宇佐海軍航空隊のことが詳しい。

「雲の墓標」は映画にもなっているようだ。
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by anzu-ruyori | 2012-05-26 21:30 | 浩三さん(竹内浩三)
アフガニスタンからの報告 中村哲さん講演会2012 

大震災後の今、アフガニスタンから学ぶこと




【日時】 2012年6月3日(日)開場13時30分 開演14時
【会場】 京都ノートルダム女子大学ユニソン会館
【参加費】 500円 (* 高校生以下は無料です)
【連絡先】 090-6325-8054 peace[@]pwkyoto.com
* 手話通訳あります

「人と和し、自然と和すことは武力に勝る力
―平和とは理念でなく、ここでは生死の問題」

人為が自然を制することはできない。人は自然の懐の中で身を寄せ合って生きている。人間もまた自然の一部なのだ。
言葉で自然は欺かれない。自然の前で政治的な茶番は見苦しい。利を得るために手段を選ばず、暴力と巧言でなりふり構わず貪る時代は先が見えた。
(ペシャワール会報108号2011年7月13日~中村哲~)

ペシャワール会
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/

ピースウォーク京都
http://pwkyoto.com/

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私がアフガニスタンに、目をむけたのは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの後です。

テロの首謀者オサマビン・ラディンへの報復として、アメリカは空爆を開始しました。
それまでも、戦乱つづいていた上に、大干ばつの被害もうけていたアフガンの民衆に、砲弾が
ふりそそぎました。

ピースウォーク京都はすぐに、空爆反対のデモをして、12月に中村哲さんの講演会を
開催しました。

ところが、そのずっと以前(1984年)から中村哲さんはアフガニスタンで、活動されて
いたのです。
病院を建て、井戸を掘り、今も大規模な灌漑施設の建設が進められています。
そして、その原資はすべてペシャワール会に寄せられる寄付です。

こんな日本人がいるのかと、私はびっくりしてペシャワール会に入会しました。

2008年、現地ワーカーの伊藤和也さんが誘拐され殺害されるという痛恨の出来事もありました。
私が具体的にピースウォーク京都の活動に参加するようになったのは、このときからです。
お悔やみのビジルをして、2009年春、写真展を手伝いました。

今、アフガンでは依然としてアメリカや多国籍軍による誤爆や無法行為が伝えられています。
アフガンの現状をしり、大震災を経験した今の日本を、中村哲さんがどう見て、
何を語るのかを、緊張感をもって期待しています。

どうぞ、6月3日会場にお運びください。
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by anzu-ruyori | 2012-05-22 00:28 | 平和 自由 
昭和19年 
5月20日 【土曜日】

 外出もしないのだから、洗濯をして、一つ、ゆっくりひるねでもしようと考えていたら、
宮崎曹長の引越しの手伝いに行けと云うことになった。

 雨外套をきて、公用腕章をつけて、副当番の小畑家安と北条へでかけた。

 トコ屋で頭を刈った。うどんを喰った。

ゆくと、曹長は大八車を引いて出かけたアトで、奥さんと奥さんのおふくろさんと子供がいた。
もう荷物はぜんぶもって行ったから、このふろしきづつみをもって行ってくれと云った。

こんどの家は、水守であった。きたない小さい家であった。電燈がないので、ランプであった。
屋主の家で、ひるめしをたべて帰った。

 軍歌演習を、夕方していると、警戒警報のラッパがなった。

5月21日 【日曜日】

 夢で姉が死んだ。

 ぼくは夢で、姉さんと呼んだら、その声で、目がさめて、小便に行った。

 又、少し寝ると、おこしにきた。
 二時であった。宮崎曹長のところへ行って、四時までにくるようにと云いにゆく使いであった。雨でまっ暗であった。なにも見えなかった。

 曹長と傘をさしてかえってきた。もう明るくなっていた。やれやれと思って、寝ようとしていたら、全員起床ときた。四時であった。配置についた。

 ひるから、飛行場のはしの、いつもゆく陣地へ行った。ひるねばかりしていた。

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姉宛の手紙に、浩三さんの心情が綴られている。

とんとたよりがない。こないだ、あんたが死んだ夢をみたいので、
ひょっとしたらその夢のとおりであったのかなどと、考えています。
私が死んでも、そのことは軍隊にいる弟には知らせないでくだされなどと
25銭の芝居で言うようなことを、遺言じゃと称して、死んでしまったのではないかと。

もしも、生きているのなら、そのしるしにものなどいいなされ。(5月27日)

 
死んだかと思っていたら、生きていることがわかって、僕はよろこんだ。
子どもを産んだそうですな。又、女だという。それはざんねんなことであった、
とも考えませぬが、人はそう言ったでしょう。つづけて3人女だから、それが三人
男でも、人は退屈して、変わったことがあったほうがよいと考える。
僕は、どちらでもよい。そうつづけさまでは、えらかろうから、一ぷくして、
またうむとよい。うんだら、僕のことをえらい叔父さんだと考えるような娘にそだていると
なおよい。(6月2日)

三人目の姪子、芙美代ちゃん宛ての手紙が、素敵。

http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html
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by anzu-ruyori | 2012-05-20 17:58 | 浩三さん(竹内浩三)
昭和19年

5月16日 【火曜日】

 防空壕をこしらえた。
 夜、岡安から速達がきて、省三が面会にくることを強調していた。
 保文が死んだと云って、ぼくに、なんのはなしがあるのであろうか。

 夏服がわたされた。


5月17日 【水曜日】

 雨がふっていた。
 雨季がきた。
 赤痢の注射をした。班内で、射撃の予行演習であった
 乾省三から、またはがきであった

5月18日 【木曜日】

 防空壕のヤネをこしらえた。
 みどり葉に、ひげの雨であった。

 夏服をきた。こんどの夏シャツにはエリがついている。
 ズボン下はみじかくて、下のくくりひものないやつであった。


5月19日 【金曜日】

 雨がみどり葉にけぶっていた。四種混合の注射をした。
 ひるから、作業隊の爆発の演習を見学した。
 赤い旗がぬれている。
 爆発試験がすむと休養で、ねてもよいことになった。
 四種混合は、また極楽注射とも云う。

 おきて、吉田絃二郎の『島の秋』を読んでいた。
 ビンにさしたツツジの色が、あせていた。
 きのう、ラジオでベートーベンのロマンスをきいた。
 あしたの外出は遠慮することにした。

 あめのふる窓に、つつじの花が、咲くように、咲くように、咲いていた。

 夕方がきて、さびしさがきた。
 からいたばこをすっていた。


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サイダービンには、つつじ。

季節がかわって、夏服になった。
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by anzu-ruyori | 2012-05-17 21:36 | 浩三さん(竹内浩三)
昭和19年

5月13日 【土曜日】

 班内に花をいけることがゆるされた。
 サイダービンに、つつじと菜の花とボケをさした。

 窓が開けはなしてあって、五月の風がすうすう流れてはなはだ具合がよかった。
 ぼくは、はだかになって、花を見ながらめしを喰った。
 ひだりの腕は銃剣術で、むらさき色をしていた。

 きのうの外出のとき、宮崎曹長のところへ遊びにゆかねばならぬことになっていた。
 ゆかなかったので、きげんを悪うしていた。

 山室貴奴子からハガキがきた。

5月14日 【日曜日】

 中隊の銃剣術の試合があって出た。九人として、二本かった。
 からだがだるうて、なんにもしとうない。
 ひるから防空壕を掘った。

 クリーム色のたよりない夕方であった。

 あした、部隊の銃剣術の競技会があるので、亀山とふたりで、
そのあいだだけ中隊当番につくことになった。

5月15日 【月曜日】

 がらんとした事務室で『春をまちつつ』を読んでいた。乾省三からハガキがきた。
 二十八日に面会にくるかもわからないとあった。

 「一日として事なき日はなし」
 ゾラが坐右銘にしていたという。

 部隊の銃剣術でうちの中隊はビリであった。

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軍隊では、花を生けることも許可がいるのだ。
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by anzu-ruyori | 2012-05-14 17:24 | 浩三さん(竹内浩三)
昭和19年

5月12日 【金曜日】

 みどり葉の五月。ぼくのたん生日である。

 外出した。麦が穂を出していた。十一屋に大岩照世夫妻がきていた。宗道まであるいた。

 みどり葉の五月。
 面会にきてくれると、
 ぼくは、もっと、もっと
 ものを云いたいと、あせりながら、
 ものがあまり云えなくなる。
 いつもそうだ。どうでもいいようなことに、ことばをついやしてしまう。

 かすれた接触面をもつ。
 赤いうまいリンゴであった。
 下妻でミルクを飲んだ。カツとテキをたべた。スシをたべた。
 街をあるきまわっていた。
 クローバの草原の上でやすんだ。
 もっとものを云いたいとおもっているうちに、時間がすぎた。
 酒をのんだ。
 みどり葉の五月。むぎばたけの中を帰った。

 『春をまちつつ』と『種の起源』と『日本書紀』をもってきてくれた。

 夜、すこし読んだ。

 夜、銃剣術をした。

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竹内浩三 23歳の誕生日 つくばにて。
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by anzu-ruyori | 2012-05-12 01:00 | 浩三さん(竹内浩三)
昭和19年

5月9日 【火曜日】

 中隊当番下番。田中准尉の使役で、からす口で線なんかひいていた。
 山室貴奴子からたよりがきた。阿蘇山の春をうたっていた。


5月10日 【水曜日】

 田中准尉の使役をしていた。姉から手紙がきた。
 こないだ小林が外泊したときに出してもらった手紙を、岡安のおばさんがかんちがいして、
姉夫妻は、その小林のふるさとなる京都府なんとか郡にぼくがいると思って面会に行ったと云う。
とんでもないことだ。

5月11日 【木曜日】

 朝のうちは、田中准尉の使役であった。ひるからは、石炭はこびをした。

 きのう、小ねずみを見つけた。
 ズボンのポケットに入れていた。夕食のオカズのジャガイモを一きれやった。
 おびえていて、たべなかった。雑嚢へ菓子のかけらと一緒にいれておいた。
 きょうの夜間演習に雑嚢へいれてつれていった。
 松林の中で出したら、一もくさんににげていった。
 風の強い夜であった。

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小ねずみの話は、童話になりそう、題名は「兵隊さんと小ねずみ」

浩三さんが戦争から帰ってきていたら、映画を作ったり、詩をかいたりして、
ときには、童話をかいたかもしれないなと思う。

つくばの風の強い春の夜の話。
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by anzu-ruyori | 2012-05-10 20:48 | 浩三さん(竹内浩三)