銃剣術がいやで、さぼっていた★竹内浩三 筑波日記
2012年 02月 24日
「五月のように」さんより転載させていただきます。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html
なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
筑波日記 全文と写真版を参照させていただいています。
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=510&cPath=177_222
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1944年 昭和19年
2月24日
朝起きると、銃剣術。
朝飯がすむと、銃剣術。
これはかなわぬと思っていたら、ひるからも銃剣術。
そこへ、三島少尉によばれた。行くと、飛行機の画を書いてくれ。カーチスホーク。
かいた。三十分ほどで書けた。銃剣術がいやで、事務室でさぼっていた。
夕方また銃剣術。汗をかいた。
2月25日
朝起きると、銃剣術。
午前中は、対空射撃の学科。
いねむりが出てよわった。学科というといねむりする。
中学校のころ、教室でいねむりするやつを、妙なやつだと思ったが、そのねむさがわかった。
中村班長に呼ばれた。照準環の図を書いてくれと云う。かんたんなものであったが、
なるべく時間をかけて書いた。そのうち、みな、壕掘りに出かけて行った。
ものすごい風であった。
照準環は、なぜ楕円形にしてあるのか、そのわけを考えていたら、次のごとき案を得た。
それを三島少尉に持っていったら、早速作ろうと云うことになった。
それで、その設計図を書いてもってゆくと、黒江中尉がいて、それはもうすでにできていて、
どしどしつくられていることを云った。
発明などと云うものは、たいていこんなものである。
2月26日
昨日の壕掘りのつづきを、朝五時半に起きてやりに行った。
飛行場のはしで、いつかの雪の朝の防空演習のとき銃をすえたところであった。
ひるまでかかった。
ひるから、対空射撃の演習。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
銃剣術・・・、白兵戦・近接戦闘において、先端に銃剣を装着(着剣)した小銃を武器にして敵を殺傷する武術
上官によばれて、事務所で絵や設計図をかくことをおおせつかって、訓練をぬけることができた浩三さん、ラッキーでしたね。
三嶋さんの証言にあるように、浩三さんはちょっとだけ「特別扱い」されていたところも
あったのです。たしかに器用だったせいもあるけど、伊勢の竹内呉服店からの「つけとどけ」の
力もあったかもしれません。
浩三さんの伯父さんにあたる二つ年上の「竹内敏之介」さんが入営した京都の部隊には、
竹内呉服店の番頭「省三さん」が、面会のたびに反物や洋服地をもっていったそうです。
そのおかげか、敏之介さんは、工兵部隊に配属されて前線で戦うことが少なかったようです。
インパール作戦に参加し、捕虜となり2年後に復員されました。
工兵部隊には、大工さん、表具師さん、石屋さんなど、職人さんが多く配属されている部隊でした。
1980年に建立された「戦死ヤ アワレ」の詩碑は、そのご縁で京都の石屋さんが制作されたそうです。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html
なお、竹内浩三著 小林察編 「日本が見えない」(藤原書店)より
筑波日記 全文と写真版を参照させていただいています。
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=510&cPath=177_222
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1944年 昭和19年
2月24日
朝起きると、銃剣術。
朝飯がすむと、銃剣術。
これはかなわぬと思っていたら、ひるからも銃剣術。
そこへ、三島少尉によばれた。行くと、飛行機の画を書いてくれ。カーチスホーク。
かいた。三十分ほどで書けた。銃剣術がいやで、事務室でさぼっていた。
夕方また銃剣術。汗をかいた。
2月25日
朝起きると、銃剣術。
午前中は、対空射撃の学科。
いねむりが出てよわった。学科というといねむりする。
中学校のころ、教室でいねむりするやつを、妙なやつだと思ったが、そのねむさがわかった。
中村班長に呼ばれた。照準環の図を書いてくれと云う。かんたんなものであったが、
なるべく時間をかけて書いた。そのうち、みな、壕掘りに出かけて行った。
ものすごい風であった。
照準環は、なぜ楕円形にしてあるのか、そのわけを考えていたら、次のごとき案を得た。
それを三島少尉に持っていったら、早速作ろうと云うことになった。
それで、その設計図を書いてもってゆくと、黒江中尉がいて、それはもうすでにできていて、
どしどしつくられていることを云った。
発明などと云うものは、たいていこんなものである。
2月26日
昨日の壕掘りのつづきを、朝五時半に起きてやりに行った。
飛行場のはしで、いつかの雪の朝の防空演習のとき銃をすえたところであった。
ひるまでかかった。
ひるから、対空射撃の演習。
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銃剣術・・・、白兵戦・近接戦闘において、先端に銃剣を装着(着剣)した小銃を武器にして敵を殺傷する武術
上官によばれて、事務所で絵や設計図をかくことをおおせつかって、訓練をぬけることができた浩三さん、ラッキーでしたね。
三嶋さんの証言にあるように、浩三さんはちょっとだけ「特別扱い」されていたところも
あったのです。たしかに器用だったせいもあるけど、伊勢の竹内呉服店からの「つけとどけ」の
力もあったかもしれません。
浩三さんの伯父さんにあたる二つ年上の「竹内敏之介」さんが入営した京都の部隊には、
竹内呉服店の番頭「省三さん」が、面会のたびに反物や洋服地をもっていったそうです。
そのおかげか、敏之介さんは、工兵部隊に配属されて前線で戦うことが少なかったようです。
インパール作戦に参加し、捕虜となり2年後に復員されました。
工兵部隊には、大工さん、表具師さん、石屋さんなど、職人さんが多く配属されている部隊でした。
1980年に建立された「戦死ヤ アワレ」の詩碑は、そのご縁で京都の石屋さんが制作されたそうです。
by anzu-ruyori
| 2012-02-24 23:34
| 浩三さん(竹内浩三)