未定稿 @ 京都
2024-02-19T18:56:11+09:00
anzu-ruyori
逡巡のとりどり@京都
Excite Blog
尹東柱とともに2024 @立教大学
http://miteikou.exblog.jp/33842521/
2024-02-19T12:59:00+09:00
2024-02-19T18:56:11+09:00
2024-02-19T12:59:27+09:00
anzu-ruyori
未分類
立教大学では、2008年から「詩人 尹東柱とともに」という集いを2月に開催されています。
礼拝堂は1919年落成で、2013年に建て替えられたものですが、たしかに尹東柱がこの場にいたことを感じて厳粛な気持ちになりました。
2024年2月18日(日)14時~
詩人尹東柱とともに・2024 @立教大学諸生徒礼拝堂
主催
詩人尹東柱を記念する立教の会
共催
平和・コミュニティ研究機構
【第一部】追悼の祈り
聖歌「いつくしみ深き」日本語と韓国語
聖書 マタイによる福音書第5章第3節~11節 ← 八福(尹東柱)
教話 柳 時京司祭 (日本聖公会川口基督教会)
お祈り
詩の朗読
アリラン 合唱
【第二部 公開講演会】 @8号館講義室
尹東柱の今日性 後期詩が伝える今日の課題について
講師 上野潤
上野さんは17日に京都芸術大学の追悼式に参加して、詩を朗読した学生の感想を紹介された。
「尹東柱の詩はまるで私ひとりに語りかけられているような気持ちになる」
上野さんはまさに、これは尹東柱の詩の本質だといわれた。
尹東柱の詩を読むことは、対話することだと。
1939年9月から1940年12月までの詩が残されていないことから、尹東柱の詩をこの時期を境に「前期詩」と「後期詩」にわけ、後期詩」の特徴である「光」と「闇」の対比、「原罪観」「救済観」「終末観」について、詩の文言から具体的に分析をされた。
上野さんは、尹東柱の同級生「柳 玲」(ユ ヨン)さんを恩師といわれて、びっくりした。
日本初の尹東柱詩集「空と風と星と詩」(1984 伊吹郷)には、柳 玲さんの「窓の外にいるなら、叩け」という鮮烈な詩が掲載されている。
その詩は1947年2月16日の尹東柱追悼集会で朗読されたものだった。
講演の最後に私は思い切って質問をして、柳玲先生からお聞きしている尹東柱の思い出を教えてくださいといった。
上野さんは、柳玲先生には孫のようにかわいがって頂き、とてもとても穏やかな方だったけれど、
尹東柱はそれよりも、ずっとずっと穏やかで、尹東柱がいることで、みなが穏やかになるような人だったと話された。そして、同じく同級生の文 益喚(ムンイッカン)さんは、尹東柱がいつも上履きのかかとを踏んではいていたという、ちょっと意外な面も話されたと紹介してくださいました。
講演会が終わり、外にでると風にながれる雲が青い空にみえました。
この日はアサイチ「平和記念展示資料館 シベリア抑留者の文化活動」
ヒルイチ「高麗博物館 ハンセン病と朝鮮人」の展示で学びました。
立教大学のあと、新宿南口「ラファに侵攻するんじゃないよ!スタンディング」に参加して新幹線で帰りました。
いや、そもそも 国分寺で竹内浩三の映画上映があるので上京したのでした。
立教大学にいけてよかった!
しかし、何回きても、東京なれんわ~
駅でうろうろして舌打ちされるのも、なんか、ちょっとうれしい(東京きたー!って感じ)
↑1920年の礼拝堂
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沖縄から千葉へ 2022年11月30日
http://miteikou.exblog.jp/32899798/
2022-12-14T01:08:00+09:00
2022-12-14T19:53:45+09:00
2022-12-14T01:08:48+09:00
anzu-ruyori
平和 自由
なぜに? それは3年越しいやそれよりずっと前から行きたかった大切な場所に行くため。
まだコロナ時代の前でした。
染色家の斎藤洋さんが、全国各地で野染めをしておられ、
千葉県館山市の「かにた婦人の家」で野染めをするご縁ができたことをお聞きして、
それはぜひとも、おともさせてもらいたいと楽しみにしていました。
それが、コロナ時代に突入して延期延期の、いつのことやら~
で、3年。
斎藤さんから「かにた やっと決まりました」と連絡がきたのが、11月15日。
既に27日からの沖縄行の予定が決まっていたが、私に「かにたに行かない」という選択肢はなかった。
「かにた婦人の家」にかつて入所されていた城田すず子さん。
日本人女性として慰安婦被害を告白されている稀有な方だ。
城田さんの人生を知ったときから、1985年に建立された
「噫(ああ)従軍慰安婦」
の碑にいつの日にかお参りしたいと思ってきた。そのときが来たのだ。
沖縄4泊の予定を2泊に急きょ変更。飛行機のチケットを取り直す。
千葉県館山市へは、羽田空港から東京アクアラインでバスでいけることがわかり、
23時到着の満席のナイトフライト。羽田空港第一ターミナル内の「ファーストキャビン」に
宿泊。お風呂がうれしかった!
翌朝は、6時45分のバスで木更津→館山駅前8時30分着
↑羽田空港からの朝日
館山駅前で斎藤さんや京都から参加の蒔田さん、旧知のぺこさんと16歳の少年、
そして、かにた婦人の家とつないでくださったKさんと合流!
きのうは嵐のような天気だったそうだが、ゆっくりと晴れてくる気配が感じられた。
「かにた婦人の家」に併設されている通所施設「かにた作業所 エマオ」の利用者さんたちと野染めを行う。
作業所の外にでてきた10代から40代くらいの利用者さんたち、エプロンをつけている人もいる。彼らに斎藤さんが「おはよう!晴れたね~元気?一緒に染物やろうね!」と大きな声をかけていた。
作業所の所長 佐々木さんがKさんとご縁があり、きょうの野染めイベントとなった。
斎藤洋さんは、1965年16歳のとき、この「かにた婦人の家」の建設ボランティアとしてひと夏をすごしていたというのだ。
ひろばに白い布がひろげられるところから、野染めがはじまる。
斎藤さんのトークが炸裂!「おにぎりマン」とか「メロンちゃん」とか絶妙な名前で利用者さんを呼び、みんなにオオウケ 大爆笑が続く!
刷毛をもつと、それぞれのこだわりのままに布にむかっていた。
うつむいて立っていた少年が、いつのまにかキラキラした目をして刷毛を動かしていた。
近くにいるけど、参加せずにいる男性もこの場にいるという選択をして、彼なりに参加しているのだと、次第にわかってきた。
ちてきしょうがい だうんしょう かんもく はったつしょうがい じへいしょうなどと、名付けられ、地域や家庭で生きにくいことも多いだろう彼らが、毎日ここにきて、みんなといっしょにいて、同じことはしなくても、同じ場所で同じ時間をすごすことが、どんなに大切であるのかと思った。
この平和な時間がいつまでも続いてほしい。
なにより、彼らの笑顔に私が救われ、幸せを一杯もらいました。ありがとうございました。
また、会いましょうね。
おいしい昼食のあと、佐々木さんに園内を案内していただく。
山を登る坂道に畑ややぎ小屋や果樹園が続く。
その先に礼拝堂 鐘楼以外は手作り。
地下には亡くなられた方の写真とお名前の陶板
ここで城田すず子さんの本名をはじめて知る。
「そう M Y さんだったんですね」と胸に刻む。
佐々木さんはいつも城田すず子さんの車椅子を押しておられたそうだ。
私が、どんな方でしたか?とお聞きすると
「さっぱりした気性の方でしたよ。いろいろお願いされて、できないことがあって、
それは出来ないんですというと 『あっそう』って 言われましてね」
と教えてくださった。
城田すず子さんと直接お会いしていた方のお話を伺えて感慨無量だった。
「噫(ああ)従軍慰安婦」
一緒に京都で慰安婦問題を取り組んできた蒔田直子さんと一緒にくることができてよかった。
最後に戦争遺跡を見る。
この地は「洲の埼海軍航空隊」跡
戦闘指揮所として建設された地下壕が残されていた。
館山駅から東京八重洲口行のバスに乗って、東京アクアラインから首都高で東京駅まで。銀座の安藤栄作展にかけつけた! 私は安藤さんの作品は木彫よりドローイングが好きなので、2点あり嬉しい。はじめて見るブロンズの作品は、一瞬「コルヴィッツがあるのか!」と思った。
初辺野古座り込み記念に、「うづくまる自由」とツーショット。
「座り込む」と「うづくまる」は違うけどな~と思いながらも。
うまい中華料理を食べて、新幹線で京都に帰りました。
11月27日~30日
沖縄~千葉~東京 我ながら、よく行きました。無事でよかったあ。
その後も疲れなし~
2022 12 14 記
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沖縄行 その2 2022年11月28日~29日
http://miteikou.exblog.jp/32899727/
2022-12-13T22:44:00+09:00
2023-02-18T13:32:42+09:00
2022-12-13T22:44:52+09:00
anzu-ruyori
平和 自由
大宜味村在住のOさんが、来てくださり、埋め立て地がみえるところまで案内してくださった。
あれ、全然、できてへんやん と思った。
それから、瀬嵩の美しい浜と貝殻たちを見て、安和と塩川の抗議活動の現場へ。
幟旗をもって歩く年配の男性が野武士のようでかっこよかった。
ゆっくり歩くことで、ダンプの入港を阻止している。
この抗議行動が朝7時から夜8時まで続けられている。
この地味だけど、過酷な抗議行動に、毎日参加している人たちに頭が下がる。
夜は【ミサイル配備から命を守る市民の会】の発足集会へ。
わけも分からずいきましたが、行ってよかった。
予定されていた100人を超えて、続々と人が来てびっくりしました。
山城博治さんのウチナーグチを混じえての連帯の挨拶が嬉しかった。
何より、会則やアピール文への意見が会場からたくさんの出てくる様は圧巻で、
直接民主主義を目の当たりにしました❗沖縄すげーと思いました😄
11月29日の辺野古 キャンプシュワブには、サンタがいた。
朝9時と12時の座り込みに参加。きょうは2回とも機動隊に排除されてみた。
椅子に座ってたら、排除しやすいなと思った。
ほんまに地べたに座り込んでうづくまってみたらどうなんだろう。
島袋文子さんも車椅子で参加されていた。11時くらいまでお話を伺った。
山城博治さんがリーダー。きょうは岐阜から10名くらいの人が来られた。
ぐるぐるデモ
北部土木事務所での交渉で、名護に来ておられたKさんが辺野古にこられ
再会をよろこび、ヘヴンヘヴンで、昼食。
15年以上前に京都から移住されたKさんには、いつもいつも「沖縄に来てください」と
いわれてきたのに、こんなに月日がたってしまいました。ごめんなさい。
辺野古をあとにして、今帰仁に向かう。なきじん?
昨晩 うるま市の集会で私は見覚えのある女性に出会った。
「なんで、はじめて来たうるま市で知ってる人がいるの?」
少しして思い出した!「京大琉球遺骨返還訴訟の原告 亀谷正子さんだ!」
亀谷さんは、会場の一番前の席に座り、質問もしておられた。
集会が終ったあと、「京都から来ました。訴訟の傍聴にも参加しています~」と
ご挨拶するととても喜んでくださった。
京大琉球遺骨問題とは、
1928年~1933年、京都大学病理解剖学門下の金関丈夫と三宅宗悦により
今帰仁運天にある「百按司墓」(むむじゃなばか)を含む沖縄県各地から、その子孫や門中および地域住民の了承を得ることなく、少なくとも、遺骨59体(金関)70体(三宅)を持ち出して、京都帝大および台北帝大に送付した。
このご遺骨の保存状態や研究成果についての質問に京都大学は一切答えず、ご遺骨を閲覧することもさせないということで、裁判が行われいる。
私は京大のそばに住んでいることもあり、提訴の前から京大への申し入れやアイヌ遺骨の追悼式や学習会に参加してきた。
京大琉球遺骨返還訴訟 ←ここをクリック!
亀谷正子さんは琉球王朝時代の第一尚氏の子孫で「百按司墓」(むむじゃなばか)がその墓所である。
車のナビでは、運天の港(2019年3月ジュゴンの亡きがらが流れついた港)につれてこられたが、グーグルマップさんで「百按司墓」(むむじゃなばか)に辿りつけた!
まさか来れるとは、思わなかった!
この壁は明治時代に骨がさらされるのは「見栄えが悪い」と、いわれ作らされたもの。
お墓から見える運天の海
お参りをして帰るとき、足元でガサッと動くものがあった。
おおきなオカヤドカリだった。昼間はでてこないものなのに、なんで?ここに?
第一尚氏の時代から命をつないでいるオカヤドカリかもしれないなと思った。
旅から帰って、翌日!12月1日大阪高裁第2回公判へ。
↑公判後の報告集会 次回期日は2月9日14時~
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沖縄行 その1 2022 11 27~
http://miteikou.exblog.jp/32899455/
2022-12-12T22:04:00+09:00
2022-12-14T07:54:56+09:00
2022-12-13T16:36:54+09:00
anzu-ruyori
平和 自由
米軍基地埋め立て反対の抗議行動。
10年以上前から平和運動をしている友人たちがよく沖縄に行っていて、自分もいつかはと思っていた。6年前と 5年前には宮古島と与那国島に行った。
それでも、沖縄島の抗議行動に踏み出せなかったのは、心の奥で
『ほんまに、基地建設を止める効果があるのか? もう遅いんちがう?』
と思っていたからだ。
自分がやれることは少なすぎると感じていた。
それが、今回、休みを取って行こう!と思ったきっかけは、二つ。
10月に①ヒロユキの言動をネットで目にしたことと、②ウトロ平和祈念館に行ったことだ。
ヒロユキの人を貶める言動は嫌な気持ちがしたけど、少し同感するところもあった。
それは、ずっと座り込みしてるんじゃないところと、他の方法があるのじゃないかというところ。
運動のための抗議活動という気持ちがしていたから。
そのすぐあとのこと、生活クラブ生協Lコープ平和部の企画で【ウトロ平和祈念館】の見学会で初めて、ウトロ地区に足を運んだ。駅をおりて、記念館に向かう一歩一歩、足が重かった。
『今頃、何しに来たんや』と自分で自分を叱責しながら歩いた。
ウトロ地区はきれいに整地されて、新しい市営住宅が建ってた。
2021年に放火された住宅がそのまま残っていたが、人の営みが感じられるところは少なくなっていた。
【ウトロ平和祈念館】を見学し周辺をフィールドワークして熱い想いの解説をして頂いた。
今頃きたけど、ずっと差別と闘ってきた人たちの声に耳をすませていかなくてはならないと強く思った。
それで、やっぱり【辺野古に行かなあかん】という結論になった。
11月27日(日) 神戸空港に向かう。
一人で飛行機に乗るの緊張する。手順がわからない。ネット予約したけど、ほんまにとれてるのか、スマホ故障したらどうしよとか、大きなリュックは手荷物になるのか、ペットボトルは?などなど不安しかない。
無事に乗船、久しぶりに離陸の轟音、『死ぬ可能性』を確認する。
着陸したら、隣の席の兄ちゃんが上着を脱いでタンクトップになったので、ギョッとする。
沖縄まだ夏か?
那覇空港出口で、一足早く来ていたYちゃんの顔を見つけて、ホッとする。
最初に連れていってくれたのは、空港から車で15分ほどの海岸。
PARCOが建っている向いの浜【浦添西海岸】だった。
青い水平線と遠浅の干潟が広がる美しい浜。日曜なので子どもたちが網をもって干潟に入っている。カッブルが堤防に目転んでいる。長閑な光景が広がっていた。
空港からすぐのところに、こんな浜があるなんて、沖縄すげー!となる。
ところが、この浜を米軍の軍港にするという。沖縄県による埋め立て承認が出たのだと。
砂浜は、真っ白で様々な形のサンゴで一杯だった。靴下をぬいで海に入ってみる。小さな魚が泳いでいる。
『一番きれいなところを米軍はほしがる』とYちゃんがいった。
浦添西海岸の埋め立て反対署名 ←クリック!
佐喜真美術館や嘉数の丘 みちのえき嘉手納から米軍基地を初めてみる。
車窓には、いつまでも続くフェンスや緑の芝生で整備された基地。
米兵の姿は見えないが、本州の基地の無い場所とは大きく違うと感じる。
高速道路を走る観光客は米軍基地を実感しにくいのかもしれない。
嘉数の丘にはトーチカや壕あともあった。丘に地下壕が広がっていて、それは住民や朝鮮人の労働によって作られたそうだ。
11月28日
辺野古の宿に泊まって、朝を迎える。
ラッパの音が聞こえる。
米軍基地の起床ラッパ。
ラッパの音で起きなくてはいけない兵隊のことを思って少し泣く。
浩三さんといっしょやん。
戦争、終わってへんやんか。
外は雨。激しく降っている。用意してきたカッパ上下のフル装備で傘をさして、
キャンプ・シュワブの工事車両の搬入ゲート前へいく。
宿から歩いて、5分ほどで歩道に設けられた小屋掛けが見えてきた。
折りたたみ椅子とプラカードの準備もある。
それらを持って、ゲート前の警備員さんが並んでいる前に、座るのだ。
警備員さんたちに『おはよーございます』と挨拶すると、頷いてくださる。
警備員の上司の人が、並んでいる部下たちの服装や姿勢をチェックしている。
軍隊式に整列して指先まで揃えて起立。
まるで、初年兵と上官のようだった。
『歯を食いしばれー』といってビンタされるんじゃないかと、デジャブ。
こんな仕事いややろーな。
雨は降り続いている。
9時前から、抗議行動がはじまる。まずは歌、シュプレヒコール。
そうしてると、ダンプがやってくる。
ダンブの列 機動隊の兄ちゃんたちが黒いサングラスをして出てくる。機動隊の兄ちゃんが「もう立ちましょうか?」「立てますか?」「立って歩けますか?」と聞いてくる。
見えない目に向かって、「立ちません」「戦争反対」という。
となりの人が立ったので、私も椅子とプラカードをもって立つ。
コロナ感染予防、非接触のため、激しい抵抗はしないとのこと。
それでも、立たずに4人がかりで、排除される男性もいた。
ダンプが動きはじめるまで、ゲート前の警備員や機動隊にむかって、
「戦争あかんやん あなたたちも そう思ってるやろ 戦争するための基地を作らないで」
など 言わずにはいられない。
資材を積んだダンプがどんどん入っていって、そのあとゲート前でぐるぐるデモをして
抗議行動は終了した。
はじめての辺野古座り込みの感想は
「見たり聞いたりしていたのと、実際に座り込むのとは、全然違う」ということ。
警備員の前の狭いところに座って見える景色や機動隊員の黒いサングラスや制服やダンプの大きさやらは、ここに座らないとわからない。
ひろゆき氏も高須氏も誰でも、辺野古に来たなら、ここに座って、ここから見て、
発言してほしいと強く思った。
座り込んでいて、忘れていたことを思い出した。
2007年2月に、大阪長居公園の野宿者排除阻止の行動に参加したときのこと。
私は段ボール人間になって、野宿者の段ボールハウスを壊す大阪市職員の前に立っていた。
詳細↓
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東京アート行 丸木美術館
http://miteikou.exblog.jp/32837194/
2022-09-25T14:37:00+09:00
2022-09-25T14:40:53+09:00
2022-09-25T14:37:02+09:00
anzu-ruyori
アート
京都から同行の画家Aさんと東京在住の俳優Mさんと私、女性三人で東武東上線 東松山駅から小さなコミュバスにのって、「丸木美術館東」下車徒歩15分。
原爆の図は、静かに激しくそこに在った。
見覚えのある印象的な人物やモチーフの中に、「あれ、はじめて見るような・・・」と思える人物や情景を見つける。
作品が大きくて描かれているものが膨大な量なので、見過ごしていたものも多いことに、気が付く。
なんどでも、繰り返しみたい作品たちだ。
山形で巡回展示されている作品の代わりに【大逆事件】が展示されていたのは貴重だった。展示は4年ぶりとのこと。
1911年1月にくびき殺された大石誠之助 幸徳秋水 管野スガら11人の肖像が、くびき殺した縄の下に描かれている。
絵をみて連想するのは、2018年に死刑執行されたオウム真理教の13人のことだった。
絞首刑が今この現在に存置されていることを、自分事として考えたい。
企画展は、蔦谷楽 ワープドライブ WARP DRIVE
↑「原寸大エノラゲイの操縦席」が、ロシアウクライナ戦争の影響で搬入できなくなり、新しく制作された「日系人収容所~原爆バラック」
【蔦谷楽はニューヨークを拠点とし、核の歴史的悲劇をテーマとして日米両国でのリサーチやインタビュー、またアーカイブの研究を通して、制作活動を続けてきた。核問題は日本で語られる物語とアメリカのそれでは大きく違うところもあれば、共通点もある。蔦谷はその両方に目を向け耳を傾け、国境を超えて共有されるべき物語を美術作品として構築しようと模索する。(ホームページより)】開催日:2022年7月23日(土)~10月2日(日)
はじめて知ったNY在住16年の蔦谷楽というアーティストさん。
日本初個展とのこと。学芸員の岡村幸宣さんが「他で(初個展)されたらくやしい」と思い、すぐオファーされたとのこと。
POPなイラストレーションや映像作品、人物を動物やゴルフボールにしたてることで、可愛らしさと不可解さが混在された世界。
1940年代のウラン採掘から原爆製造の物語が、語られる、アメノ国とか比喩的な名称と動物や昆虫に摸された人物によって描かれるうちに、「これは、過去の物語ではなく、SF? そして、未来予想か?」と思ったら、ぞっとした。
緻密な取材と調査とアメリカ在住であるからことの視点は、
「原爆の図」のリアルと「ワープドライブ」のメタファー この二つが同時にここ丸木美術館にあることの稀有さを実感してザワザワ およそ11時から15時まで滞在したが、まだまだ立ち去りがたかった。
詳細な評論 画像も多数 ↓
蔦谷楽 ワープドライブ WARP DRIVE 展評(金子牧)
↑暑い日でした。俳優Mさんと
2018年8月の丸木美術館訪問記→https://miteikou.exblog.jp/29985268/
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つくば行2021
http://miteikou.exblog.jp/32499533/
2021-11-21T18:56:00+09:00
2021-11-22T10:53:34+09:00
2021-11-21T18:56:09+09:00
anzu-ruyori
浩三さん(竹内浩三)
さて、翌日はどうしようと思って、『そうや 北條に行こう!』と思い立った。
北條までは、下北沢から小田急線に乗り、常磐線のりいれで、松戸駅でのりかえ。
北へ向かうにつれて、どこまでも続く関東平野に見とれていた。
(関西ではどこにいってもだいたい山が見えるからね。)
浩三さんは東京から離れていくのが、さみしかっただろうな。
土浦から関東鉄道バスで北條仲町下車。
連絡していた「北條ふるさと館」のみなさんが、待っていてくださった。
2年前は友人が車を運転してくれて、北條~部隊跡~吉沼~下妻を巡りましたが、
今回は、北條の方に自転車をお借りしました。
浩三さんのように、自転車で北條から作谷の部隊跡まで行ってみようとおもっていたが、
「ふるさと館」のみなさんが、「作谷までいったら遠すぎる!」と強くいわれるので、
吉沼まで往復することにした。道路地図で走りやすいところを指示してもらって、出発!
そして、奇跡のめっちゃ晴れ!寒かろうと着こんできたが、上着なしでOKでした!
北條➡君島➡若森➡大穂➡大砂➡西高野➡吉沼 と筑波日記に出て来る地名を辿る楽しさ。
筑波山を背に走る。君島付近
豊里中学への通学自転車だったので、ぐんぐん走ってくれました。
浩三さんのころは、こんな道だったのかな~。君島橋付近
戦後の開拓地。ご苦労の末に「筑波芝」で成功。大穂
芝の収穫をされていました。大砂
浩三さんが子どもたちとオルガンを弾いて歌った吉沼小学校
小学校近く 駄菓子屋さんか、文房具屋さん だったような気がする
十一屋書店さん 営業中 店内の写真はNGでしたが、1970年ごろ移転したまんまの昭和の本屋さんでした。なつかしすぎる~。
戦時中は原ケイシロウさんが妻と営業していて、兵隊さんにカルピスをおごってやったりしていたと娘さまよりお聞きしました。宮沢賢治の文庫本を買いました。
ホテル十一屋 この前が十一屋旅館だった 今は駐車場
沿道に蔵元が。明治5年創業 吉沼米の霧筑波を購入。夕景 霧がたっていました
無事に暗くなる前に帰ってきました。田村呉服店(現ふれあい館)の前で。吉沼⇔北條 往復20キロ、約3時間半のサイクリングでした。
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チャイコフスキー「悲愴交響曲」に寄す
http://miteikou.exblog.jp/32382960/
2021-08-02T15:28:00+09:00
2021-08-02T15:31:00+09:00
2021-08-02T15:28:28+09:00
anzu-ruyori
浩三さん(竹内浩三)
歌集が残されている。
1992年5月伊勢シティフィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会のパンフレットに、
こうさんの文章をみつけたので ここに転載します。
「悲愴交響曲」に寄す
私は昭和57年、伊勢シティフィルハーモニー管弦楽団第1回定期演奏会よりの大ファンです。
今回、チャイコフスキーの「悲愴」が演目に入れられたことを聞きまして、胸に溢れる感激を覚え
ております。伊勢フィルの皆様によって、この曲が演奏される日をどれほど待ったことでしょう。
伊勢市郊外の朝熊山金剛証寺奥の院、極楽門をくぐったところに、竹内浩三の「骨のうたう」の
詩の一節を刻んだ小さな詩碑が建っております。
竹内浩三は大正10年、伊勢市(宇治山田市)吹上町呉服商竹内善兵衛の次男として生まれ、宇治
山田中学より、日本大学芸術学部へ進み、戦時繰り上げ卒業、久居の中部38部隊に入隊しました。
入隊の当日、出発の時間がせまりましても奥の部屋から出て来ませんので、呼びに参りますと、身体を
折り曲げるように膝を抱え込み、じっとレコードを聴いておりました。
チャイコフスキーの「悲愴」でした。
出発を促すと「姉さん、こんな音楽、もうこれからは聴けないのだから終楽章まで聴かさせてくれよ」と
申し、最終楽章までを聴き終えて出征して行きました。
彼は再び伊勢でこの曲を聴くこともなく、昭和20年4月9日比島で戦死いたしました。23才でした。
伊勢の人は死んでから50年、岳(たけ)さんの上空に魂がとどまると伝え聞いております。
彼が世を去って47年。間に合いました。本当によかった。彼の最も愛した故郷伊勢で、彼のうまれた5月に、
伊勢フィルの皆様の演奏される「悲愴」を、朝熊山の上空でどのような思いで聴くでしょう。
ありがとうございます。伊勢シティフィルの皆様、本当にありがとうございます。
(松島こう) ← パンフレットにお名前の記載はありませんでした。
2008年5月 松島こうさん
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出会いと出会いそこないと
http://miteikou.exblog.jp/32146012/
2021-02-14T00:04:00+09:00
2021-02-14T00:10:25+09:00
2021-02-14T00:04:25+09:00
anzu-ruyori
未分類
済州島で生まれた女性の90年の人生が、ひとり芝居でくりひろげられる。
それは朝鮮人の歴史であり、日本人の歴史だ。
「ここで生きていく」私たちの歴史だ。
幸いなことにスタッフ「きむきがんと愉快な仲間たち」のひとりとして、お手伝いをすることができた。
劇団石(トル)の みなさんから聞く「在日」のリアルな現実が刺激的だった。
記憶がよみがえる・・・
40年近く前のことだ。
私は大阪府堺市で府立高校に通っていた。
高校1年のとき、帰りの駅のホームで同級生の女の子が
「私、日本人と違うねん」といった。
「え? ちゅうごく?」と私はいった。
彼女は「韓国人やねん」といった。
それから、すぐ電車がきて、次の駅で彼女が降りるまで、私は何もいえなかった。
私はそのとき、「在日韓国人」という存在をしらなかった。
なぜ、韓国の人が日本に住んでいるのか、日本語を話しているか、知らなかった。
彼女は新井という名字だった。ニックネームは「ちゅー坊」(ドリフターズの荒井注から)。
それから高3まで、クラスは変わっても同じクラブでずっと仲良くしていたのに、
韓国の話は、それっきり一度もしなかった。
卒業して、2,3年してから、彼女から手紙がきた。
キリスト教を信仰して、すべてが解決した、救われたという長い手紙だった。
返信はしなかったと思う。
統一教会に入信したと、別の友人からあとで聞いた。
忘れていたけど、彼女の下の名前をふと思い出した。
友子だった。
今は、ウジャと 呼ばれているのだろうか。
「韓国人やねん」ときいて、そのとき、なんていえばいいのか、わからなかった。
「何人でも、ちゅー坊は ちゅー坊やん!」 と、いえたら よかったのに
と 今は思っている。
出会いと出会いそこないと そして いつの日にか 再会と。
劇団石(トル)と愉快な仲間たち 「人の値打ち」2020年秋公演 メイキング ↓
https://www.youtube.com/watch?v=9myMzRdOawg&feature=share&fbclid=IwAR0n07O01LOaGlEv_c5PfJm-NRWGgYokAQsKeWZvpFz_gk1_0wLZ2P6FDrM
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朝熊山お墓参り登山 2020年7月
http://miteikou.exblog.jp/31307629/
2020-08-04T23:10:00+09:00
2020-08-08T16:57:24+09:00
2020-08-04T23:10:27+09:00
anzu-ruyori
浩三さん(竹内浩三)
9回目のお墓参り登山。
はじめては 2007年3月4日 ➡ https://miteikou.exblog.jp/4793592/
朝熊駅到着、午前9時40分。
雨は降っていないが、今にも降りそうな空。
登り口の「であいの広場」で少し腹ごしらえをして、10時に登りはじめた。
下山してこられる早朝登山の人たちと、挨拶を交わす。
雨が続いていたので、「石ころの道」は、水が流れて川のようになっているところもあった。
長靴で来てよかった。湿度が半端ない。
↑1944年に廃止となった登山ロープウェイと廃線跡
↑この桜の木までくると、ほっこりする。幹の真ん中が空洞になっている。途中、大きなミミズとマムシに遭遇!ヒルにも、ひっつかれた!
↑山頂にあった旅館 「東風屋」(とうふうや)1964年焼失
↑東風屋の遺構 浩三さんは中学時代にこの近くでキャンプをしている。
↑奥の院入り口にある 竹内家の墓所 浩三さんのお墓と詩碑
お墓についたのが、11時30分。これまでで、一番へこたれた登山だった。雨が降ってきたし、山頂にも奥の院にもいかず、お墓のお掃除もせず 13時04分の電車に間に合うように、傘をさしての弾丸下山。行く先が雨にけぶって、南方熊楠が出会った森の妖怪が出てきそうな不思議な世界でした。
河崎 古書「ぽらん」に立ち寄る予定だったが、雨がきつくなっていたし、そのまま奈良方向に帰ってきました。そのあと、室生口大野のギャラリー夢雲へ。
朝熊山のひぐらしをききたくて来たが、雨で鳴いていなかった。そのあと、室生できくことができたけれど。
この夏のうちにもう一度きてみたいと思ってゐます。ひぐらしのシャワーをあびたいから。
「ひぐらしのなきごえがこぼれてきた。 こぼれてきて、こぼれてきて、ぼくは、びっしょりぬれていた。」(筑波日記 7月13日)
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冬のお月見
http://miteikou.exblog.jp/31067662/
2020-02-23T09:18:00+09:00
2020-02-23T09:18:52+09:00
2020-02-23T09:18:52+09:00
anzu-ruyori
日々ログ
彼女のマンションは一階だ。月がみえるのかなあと思いながら赴いた。 同世代の女性3人で、かす汁とおにぎりをたらふく食べ、それぞれの一芸に笑い、 ひと段落して、「それではお月見をはじめましょう」と、彼女が部屋の照明を少し落とした。奥の部屋からお皿にのった大きな黄色い丸いものをささげ持ってきた。それは国内最大の柑橘類 「晩白柚(ばんぺいゆ)」だった。
小玉スイカほどもある晩白柚は、ほの暗い部屋でお月様のようであった。
「大きいね」「はじめて見た!」と子どものように大騒ぎして、写真を撮り、「よっこいしょ」「よっこらしょ」と三人で分厚いほわほわした皮をむくのも楽しく、「おいしい」「さっぱりしてる」と大満足で頂いた。 熊本の友人から大きな晩白柚が届いた彼女が、 思い立った「冬のお月見」は大成功だった。帰りに、マンションの最上階から雲間の月を見ることもできた。楽しい女正月であった。
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きょうのデキゴト 「あー 男子って、ったく」
http://miteikou.exblog.jp/30902126/
2019-11-13T21:58:00+09:00
2019-11-13T22:00:54+09:00
2019-11-13T21:58:27+09:00
anzu-ruyori
日々ログ
実家からの帰り、南海高野線の中百舌鳥(ナカモズ)駅で地下鉄に乗り換えるために下車したときのこと。
夕方4時ごろ、列車からホームにたくさんの高校生、制服の男女が下りた。
そして たいていが改札階に向かうエスカレーターの列に並ぶ
私の前の男子に、話しかけた女子がいた。
「あの」ポニーテールで小麦色の肌に大きな瞳が印象的な美少女だ。
「これ、忘れてない?」と水筒を手渡した。
恥ずかしそうでもなく、相手を見据えたまっすぐな瞳に私は惹きつけられた。
しかし、男子は「あ!ありがとう!」というと、
すぐ連れの男子に「よう忘れんねん 俺」と話して、エスカレーターに乗った。
そして、もうスマホのゲームに向かっていた。
女の子は、エスカレーターを立ち止まらず、歩いて登っていった。
私は前に立ったその男子の横顔をこっそり見る。予想通りしゅっとした男前だ。
男子たちは、彼女のことなどなかったように、それはそれは楽しそうに
スマホを片手にゲームの話を続けていた。
そして、おばちゃんの妄想はひろがる。
「あの女子は、ずっと前からこの男子のことが気にかかっていて、
きょう水筒を忘れたのは千載一遇のチャンス!
やっと話しかけられたのに~」
「あーあ 男子って ったく!」
誰か、これからはじまる少女漫画、描いてくれぃ~。
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日本軍慰安婦問題の街宣(水曜行動)@京都
http://miteikou.exblog.jp/30818973/
2019-10-07T21:46:00+09:00
2019-10-07T21:46:24+09:00
2019-10-07T21:46:24+09:00
anzu-ruyori
平和 自由
あなたに、自由はありますか?
75年前、戦争中の日本で自由は制限されていました。自由にモノが言えない。着たい服が自由に着られない。自由に汽車に乗れない。自由に勉強ができない。
今、私たちは自由ですか?
この自転車 自由に 道に停められない。小学校が廃校になって、子どもたちは遠い学校に通ってるそのあとには、ホテルが建てられてる
税金がどんどんどんどん高くなる!
時間に追われて、仕事に追われて、本当に自由に生きていますか?
今、名古屋のあいちトリエンナーレで、展示中止となっている芸術作品があります
ヘイトクライムに屈して、表現の自由が制限されています
私は今、いいたいことをこのマイクで言える自由が、なくなってしまうのではないかと、おそれています
この場所で、友人がヘイト発言をする人に暴力をうけました
今、配っている慰安婦問題のパンフレットを踏みにじる人もいました
でも、私はこの自由を失いたくない!
この自由がなくならないように、自由に声をあげ続けます
それは、1991年 キム ハクスンさんが、勇気をもって慰安婦被害の当事者だと告白してくださったからです
慰安婦被害を受けた台湾の女性は、私にいってくれました
「今の日本は好きだ 今の日本人は悪くない お金がほしいんじゃない!謝ってほしい!
そして、こんなことが二度とないように教科書にきちんと書いてほしい」
今もこの日常に、性暴力があります。差別、抑圧、不平等、いじめ!
あなたのまわりにありませんか?
心の不自由さが、不寛容さが、特に一番近しい人への暴力に向かうのではないでしょうか?
みなさ~ん 自由ですか?
みなさんの心は自由ですか?
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九月、東京の路上で
http://miteikou.exblog.jp/30030518/
2018-09-04T22:57:00+09:00
2019-03-19T16:38:21+09:00
2018-09-05T00:54:59+09:00
anzu-ruyori
平和 自由
子どもや女性も映りこんでいて、話し声が聞こえてきそうな写真だ。
東京 新大久保の
高麗博物館では、鮮烈な展覧会が開催されている。12月2日まで。
ここで、私ははじめて坪井繁治の長詩に出会った。
十五円五十銭
1923年9月1日
正午二分前の一瞬
地球の一部分がはげしく身ぶるいした
関東一帯をゆすぶる大地震
この災厄を誰が予知したであろう
その日の明け方
物凄い豪雨がやってきた
それは地上にあるものすべてのものを
一挙に押し流そうとするほどの勢で降り続いた
すべてのひとびとがなお眠り呆けている中を
そこ眠りさえも押し流そうとするほどの勢で
中略
東京の街々はいつ消えるとも知れぬ火の海であり
それを眺める群衆のわいわい騒ぎにまじって
僕は何を考えるでもなく
ただぼんやりと炎の大群団から眼をはなすことができなかった
火 火 火 …
ただそれだけの眺めなのに
僕の瞳はいつまでも
火の方へ吸いよせられていた
この火がおさまらぬうちに
はやくも流言蜚語が市中を乱れとんだ
ー横浜方面から鮮人が群をなして押し寄せてくる!
ー目黒競馬場付近に三四百もの[不逞鮮人]が集まって何か不穏な気勢をあげている!
ー鮮人が家々の井戸に毒物を投げ込んでいるから、飲み水に気をつけろ!
ー社会主義者が暴動を起こそうとしているから、警戒しろ!
これらの噂はいかにもまことしやかに
ひとからひとに伝えられていった
僕が友達の安否を気づかって
牛込弁天町の下宿を訪ねたとき
そこでもその噂でもちきりだった
その友と連れだって
僕らは壊れた街へ出た
ひとびとはただ街中を右往左往していた
それはまるで荒びたお祭りであった
しかもそのお祭り騒ぎを支配するものは
銃剣もって固められた戒厳令であった
僕らが矢来下から音羽へ通ずる橋の手前に
設けられた戒厳屯所を通りすぎると
ーこらッ! 待て!
と呼びとめられた
驚いて振りかえると
剣付鉄砲を肩に担った兵隊が
ー貴様 鮮人だろう?
と詰めよってきた
僕はそのとき、
長髪に水色ルパーシュカを身にまとっていた
それは誰が見てもひと目で注意をひく異様な風体でった
僕はその異様な自分の姿にはじめて気がついて愕然とした
僕は衛兵の威圧的な訊問にどぎまぎしながらも
ーぅいいえ 日本人です、日本人です
と必死になって弁解した
かたわらの友人も僕のために弁じてくれた
そして僕らはようやく危い関所を通過した
僕は兵隊に呼び止められたときの恐ろしさよりも
その後の恐ろしさに魂までふるえる思いだった
ーこんなところでうろうろしていたら
いのちがあぶないぞー
自分で自分にいいきかせながら友と別れた
中略
田端駅から避難列車に乗り込んだのは
九月五日の朝であった
ここでも野蛮な眼がぎょろぎょろ光っていた
ーこん中にだって、主義者や鮮人どもがもぐりこんでいるかも知れんぞ。
身動きもできぬ車中でのこの放言に
僕は胸のまん中に釘を打ちこまこまれる思いをし
思わずまぶかにかぶっている帽子のツバをさらに
まふかにひきおろした
髪が長いということが
社会主義者の一つのめじるしであったから
汽車が駅に着くたびに
剣付鉄砲がホームから車内をのぞきこんだ
怪しげな人間かもぐりこんでいないかと
あれは、いったいどこの駅だったろう
僕らの列車がある小さな駅に止まると
例の通り剣付鉄砲の兵隊が車内検索にやってきた
彼は牛のように大きな眼をしていた
その大きな眼で車内をじろじろ見回していたか
突然、僕の隣にしゃがんでいる印絆天の男を指差して怒鳴った
ー十五円五十銭いってみろ
指さされたその男は
兵隊の訊問があまりに突飛なので
その意味がなかなかつかめず
しばらくの間、ぼんやりしていたが
やがて立派な日本語で答えた
ージュウゴエンゴジッセン
ーよしっ!
中略
国を奪われ
言葉を奪われ
最後に生命まで奪われた朝鮮の犠牲者よ
僕はその数をかぞえることはできぬ
あのときから早や二十四年たった
そしてそれらの骨は
もう土となってしまったであろうか
たとえ付くとなっても
なお消えぬ恨みに疼いているかも知れぬ
君たちを偲んで
ここに集まる僕らの胸の疼きと共に
君たちを殺したのは野次馬だというのか?
野次馬に竹槍を持たせ、鳶口を握らせ、
日本刀をふるわせたのは誰であったか?
僕はそれを知ってる
[ザブトン]という日本語を
[サフトン]としか発音できなかったがために
勅語を読まされて
それを読めなかったがために
ただそれだけのために
無惨に殺された朝鮮の仲間たちよ
君たち自身の口で
君たち自身が生身に受けた残虐を語れぬならば
君たちに代わって語るものに語らせよう
いまこそ
押しつけられた日本語の代わりに
奪いかえした
親譲りの
純粋な朝鮮語で
1947年8月
坪井繁治全集第一巻
……………………
この詩は、解放後第一回の震災記念日に開催された朝鮮人犠牲者追悼集会のために書かれた。
[朝鮮の仲間たち]へのアピールで終わるこの長詩は、当日、新劇の俳優が朗読して深い感銘を与えた。[朝鮮新報 2006 10 26]
高麗博物館で全文のコピーを頂きました。
95年前の日本の蛮行を今に繰り返さないために、関東大震災の事実と真摯に向き合いたい。
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原爆の図 丸木美術館 にいってきた
http://miteikou.exblog.jp/29985268/
2018-08-11T08:43:00+09:00
2018-08-11T09:19:06+09:00
2018-08-11T08:43:36+09:00
anzu-ruyori
平和 自由
池袋から東武東上線にのり「東松山」で下車、それからバス。バスを降りてから徒歩15分のところを私が道を間違えて、
30分くらい歩き回ってしまった。東京にくるといつも、道にちょっと迷う、いつもは土地勘がいいのに。
「原爆の図」をみるのは、2度目となる。
1984年7月に「原爆の図」の展覧会が京都市美術館であった。
私はその日、友人と海水浴にいっていてその帰り、閉館まぎわにいそいで見て回ったような気がする。
そのときの印象は「大きい」「黒い」「怖い」そして、「威圧感」を感じた。
34年ぶりに「原爆の図」をみて、その印象はくつがえされた。
2階の展示室に、入っていく
原爆の図 第一部「幽霊」第二部「火」第三部「水」第四部「虹」第五部「少年少女」第六部「原子野」第七部「竹やぶ」第八部「救出」の8作品が、大きな展示室に展示されていた。
私は 「あれ、そんなに大きくなかったんや」と思った。
そして、威圧感もなかった。
とても きれいだと思った。俊さんの描いた人の体の線の美しさ、位里さんの大きな筆跡の意志ある力強さに、目が離せなかった。
「黒い」とおもっていたが、色鮮やかだった。
第八部「救出」の兵隊さんたちは、たくましくカッコよかった。
1948年から描き始められた「原爆の図」は、なにか昔の歴史画のようにおもっていたが、そうではないとわかった。
「原爆の図」は、今もとても刺激的で力強い。ぜひ、また「原爆の図 丸木美術館」を訪れたいと強くおもっています。
駅前の観光案内所で「𠮷見百穴(よしみひゃくあな)」の地下軍需工場跡のことを知ったので、
次回はこことセットで訪問します。
↑ 当時のチケット 堺町画廊さんでみせてもらいました!
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茗荷 みょうが
http://miteikou.exblog.jp/29938501/
2018-07-17T17:03:00+09:00
2018-07-17T17:14:24+09:00
2018-07-17T17:14:24+09:00
anzu-ruyori
日々ログ
そのへんに出とった と。
花まで咲いて、冷奴にのせて頂いた。
野趣で、とても美味。
山尾三省さんの詩を思い出す
これは
地のもの逹の文化であり 文明であり
核兵器を作る人達や
原子力発電を作る人達への
捧げものではない
……………………………………………………………………
大根おろし
畑には 大根が太っている
その大根を引き抜いて
大根おろしを作る
藍色のさらさもようのある お皿に入れて
しょうゆをかけて
それだけで 食べる
これは
地のもの逹の文化であり 文明であり
核兵器を作る人達や
原子力発電を作る人達への
捧げものではない
つわぶきの煮つけ
野には
つわぶきの新芽がのびている
その新芽を引きぬき集めて
うす皮をむき
シイタケや油アゲといっしょに煮つける
藍色のさらさもようのある お皿に盛りつけて
やっと春になった と
にこにこしながら 食べる
こんなおいしいものは
この世にまたとない
これは
地のもの逹の文化であり 文明であり
核兵器を作る人達や
原子力発電を作る人達への
捧げものではない
山尾三省詩集 びろう葉帽子の下で より
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