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逡巡のとりどり@京都


by anzu-ruyori
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電車に乗ると車窓の風景とともに、人物観察や言葉蒐集にワクワクする。
特に、大阪環状線や南海高野線では面白いことが起こる確率がかなり高い。

実家からの帰り、南海高野線の中百舌鳥(ナカモズ)駅で地下鉄に乗り換えるために下車したときのこと。
夕方4時ごろ、列車からホームにたくさんの高校生、制服の男女が下りた。
そして たいていが改札階に向かうエスカレーターの列に並ぶ
私の前の男子に、話しかけた女子がいた。

「あの」ポニーテールで小麦色の肌に大きな瞳が印象的な美少女だ。
「これ、忘れてない?」と水筒を手渡した。
恥ずかしそうでもなく、相手を見据えたまっすぐな瞳に私は惹きつけられた。

しかし、男子は「あ!ありがとう!」というと、
すぐ連れの男子に「よう忘れんねん 俺」と話して、エスカレーターに乗った。
そして、もうスマホのゲームに向かっていた。

女の子は、エスカレーターを立ち止まらず、歩いて登っていった。

私は前に立ったその男子の横顔をこっそり見る。予想通りしゅっとした男前だ。

男子たちは、彼女のことなどなかったように、それはそれは楽しそうに
スマホを片手にゲームの話を続けていた。

そして、おばちゃんの妄想はひろがる。

「あの女子は、ずっと前からこの男子のことが気にかかっていて、
きょう水筒を忘れたのは千載一遇のチャンス!
やっと話しかけられたのに~」

「あーあ 男子って ったく!」


誰か、これからはじまる少女漫画、描いてくれぃ~。







# by anzu-ruyori | 2019-11-13 21:58 | 日々ログ
毎月第一水曜日に、日本軍慰安婦問題、日本軍性奴隷問題のアピール行動をしています。
きょうは、自由について話しました 


あなたに、自由はありますか?

75年前、戦争中の日本で自由は制限されていました。
自由にモノが言えない。着たい服が自由に着られない。
自由に汽車に乗れない。自由に勉強ができない。

今、私たちは自由ですか?

この自転車 自由に 道に停められない。
小学校が廃校になって、子どもたちは遠い学校に通ってる
そのあとには、ホテルが建てられてる

税金がどんどんどんどん高くなる!

時間に追われて、仕事に追われて、
本当に自由に生きていますか?

今、名古屋のあいちトリエンナーレで、
展示中止となっている芸術作品があります

ヘイトクライムに屈して、表現の自由が制限されています

私は今、いいたいことをこのマイクで言える自由が、
なくなってしまうのではないかと、おそれています

この場所で、友人がヘイト発言をする人に暴力をうけました

今、配っている慰安婦問題のパンフレットを踏みにじる人もいました

でも、私はこの自由を失いたくない!

この自由がなくならないように、自由に声をあげ続けます

それは、1991年 キム ハクスンさんが、勇気をもって
慰安婦被害の当事者だと告白してくださったからです

慰安婦被害を受けた台湾の女性は、私にいってくれました

「今の日本は好きだ 今の日本人は悪くない 
 
お金がほしいんじゃない!謝ってほしい!

そして、こんなことが二度とないように教科書にきちんと書いてほしい」

今もこの日常に、性暴力があります。差別、抑圧、不平等、いじめ!

あなたのまわりにありませんか?

心の不自由さが、不寛容さが、
特に一番近しい人への暴力に向かうのではないでしょうか?

みなさ~ん 自由ですか?

みなさんの心は自由ですか?


日本軍慰安婦問題の街宣(水曜行動)@京都 _f0032106_21090570.jpg

# by anzu-ruyori | 2019-10-07 21:46 | 平和 自由 

九月、東京の路上で

自警団の写真をはじめて見た。朝日新聞2018年9月2日書評欄にて。
九月、東京の路上で_f0032106_23012012.jpg

子どもや女性も映りこんでいて、話し声が聞こえてきそうな写真だ。

東京 新大久保の
高麗博物館では、鮮烈な展覧会が開催されている。12月2日まで。

九月、東京の路上で_f0032106_22590831.jpg

ここで、私ははじめて坪井繁治の長詩に出会った。

    十五円五十銭

1923年9月1日 
正午二分前の一瞬
地球の一部分がはげしく身ぶるいした
関東一帯をゆすぶる大地震
この災厄を誰が予知したであろう

その日の明け方
物凄い豪雨がやってきた
それは地上にあるものすべてのものを
一挙に押し流そうとするほどの勢で降り続いた
すべてのひとびとがなお眠り呆けている中を
そこ眠りさえも押し流そうとするほどの勢で

   中略

東京の街々はいつ消えるとも知れぬ火の海であり
それを眺める群衆のわいわい騒ぎにまじって
僕は何を考えるでもなく
ただぼんやりと炎の大群団から眼をはなすことができなかった
火 火 火 …
ただそれだけの眺めなのに
僕の瞳はいつまでも
火の方へ吸いよせられていた

この火がおさまらぬうちに
はやくも流言蜚語が市中を乱れとんだ

ー横浜方面から鮮人が群をなして押し寄せてくる!

ー目黒競馬場付近に三四百もの[不逞鮮人]が集まって何か不穏な気勢をあげている!

ー鮮人が家々の井戸に毒物を投げ込んでいるから、飲み水に気をつけろ!

ー社会主義者が暴動を起こそうとしているから、警戒しろ!
これらの噂はいかにもまことしやかに
ひとからひとに伝えられていった


僕が友達の安否を気づかって
牛込弁天町の下宿を訪ねたとき
そこでもその噂でもちきりだった
その友と連れだって
僕らは壊れた街へ出た
ひとびとはただ街中を右往左往していた
それはまるで荒びたお祭りであった
しかもそのお祭り騒ぎを支配するものは
銃剣もって固められた戒厳令であった
僕らが矢来下から音羽へ通ずる橋の手前に
設けられた戒厳屯所を通りすぎると
ーこらッ! 待て!
と呼びとめられた
驚いて振りかえると
剣付鉄砲を肩に担った兵隊が 
ー貴様 鮮人だろう?
と詰めよってきた

僕はそのとき、
長髪に水色ルパーシュカを身にまとっていた
それは誰が見てもひと目で注意をひく異様な風体でった
僕はその異様な自分の姿にはじめて気がついて愕然とした
僕は衛兵の威圧的な訊問にどぎまぎしながらも
ーぅいいえ 日本人です、日本人です
と必死になって弁解した
かたわらの友人も僕のために弁じてくれた
そして僕らはようやく危い関所を通過した

僕は兵隊に呼び止められたときの恐ろしさよりも
その後の恐ろしさに魂までふるえる思いだった
ーこんなところでうろうろしていたら
いのちがあぶないぞー
自分で自分にいいきかせながら友と別れた

   中略

田端駅から避難列車に乗り込んだのは
九月五日の朝であった
ここでも野蛮な眼がぎょろぎょろ光っていた
ーこん中にだって、主義者や鮮人どもがもぐりこんでいるかも知れんぞ。
身動きもできぬ車中でのこの放言に
僕は胸のまん中に釘を打ちこまこまれる思いをし
思わずまぶかにかぶっている帽子のツバをさらに
まふかにひきおろした
髪が長いということが
社会主義者の一つのめじるしであったから

汽車が駅に着くたびに
剣付鉄砲がホームから車内をのぞきこんだ
怪しげな人間かもぐりこんでいないかと

あれは、いったいどこの駅だったろう
僕らの列車がある小さな駅に止まると
例の通り剣付鉄砲の兵隊が車内検索にやってきた
彼は牛のように大きな眼をしていた
その大きな眼で車内をじろじろ見回していたか
突然、僕の隣にしゃがんでいる印絆天の男を指差して怒鳴った
ー十五円五十銭いってみろ
指さされたその男は
兵隊の訊問があまりに突飛なので
その意味がなかなかつかめず
しばらくの間、ぼんやりしていたが
やがて立派な日本語で答えた
ージュウゴエンゴジッセン
ーよしっ!

  中略

国を奪われ
言葉を奪われ
最後に生命まで奪われた朝鮮の犠牲者よ
僕はその数をかぞえることはできぬ
あのときから早や二十四年たった
そしてそれらの骨は
もう土となってしまったであろうか
たとえ付くとなっても
なお消えぬ恨みに疼いているかも知れぬ
君たちを偲んで
ここに集まる僕らの胸の疼きと共に


君たちを殺したのは野次馬だというのか?
野次馬に竹槍を持たせ、鳶口を握らせ、
日本刀をふるわせたのは誰であったか?
僕はそれを知ってる
[ザブトン]という日本語を
[サフトン]としか発音できなかったがために
勅語を読まされて
それを読めなかったがために
ただそれだけのために
無惨に殺された朝鮮の仲間たちよ
君たち自身の口で
君たち自身が生身に受けた残虐を語れぬならば
君たちに代わって語るものに語らせよう
いまこそ
押しつけられた日本語の代わりに
奪いかえした
親譲りの
純粋な朝鮮語で

1947年8月
坪井繁治全集第一巻
……………………

この詩は、解放後第一回の震災記念日に開催された朝鮮人犠牲者追悼集会のために書かれた。
[朝鮮の仲間たち]へのアピールで終わるこの長詩は、当日、新劇の俳優が朗読して深い感銘を与えた。[朝鮮新報 2006 10 26]

高麗博物館で全文のコピーを頂きました。

95年前の日本の蛮行を今に繰り返さないために、関東大震災の事実と真摯に向き合いたい。






















# by anzu-ruyori | 2018-09-04 22:57 | 平和 自由 
8月の暑い日に、埼玉県東松山市にある「原爆の図 丸木美術館」に、はじめていってきた。

池袋から東武東上線にのり「東松山」で下車、それからバス。バスを降りてから徒歩15分のところを私が道を間違えて、
30分くらい歩き回ってしまった。東京にくるといつも、道にちょっと迷う、いつもは土地勘がいいのに。

原爆の図 丸木美術館 にいってきた_f0032106_22554118.jpg

「原爆の図」をみるのは、2度目となる。
1984年7月に「原爆の図」の展覧会が京都市美術館であった。
私はその日、友人と海水浴にいっていてその帰り、閉館まぎわにいそいで見て回ったような気がする。
そのときの印象は「大きい」「黒い」「怖い」そして、「威圧感」を感じた。

34年ぶりに「原爆の図」をみて、その印象はくつがえされた。

2階の展示室に、入っていく 

原爆の図 第一部「幽霊」第二部「火」第三部「水」第四部「虹」第五部「少年少女」第六部「原子野」第七部「竹やぶ」第八部「救出」の8作品が、大きな展示室に展示されていた。

私は 「あれ、そんなに大きくなかったんや」と思った。
そして、威圧感もなかった。

とても きれいだと思った。俊さんの描いた人の体の線の美しさ、位里さんの大きな筆跡の意志ある力強さに、目が離せなかった。
「黒い」とおもっていたが、色鮮やかだった。

第八部「救出」の兵隊さんたちは、たくましくカッコよかった。

1948年から描き始められた「原爆の図」は、なにか昔の歴史画のようにおもっていたが、そうではないとわかった。

「原爆の図」は、今もとても刺激的で力強い。ぜひ、また「原爆の図 丸木美術館」を訪れたいと強くおもっています。

駅前の観光案内所で「𠮷見百穴(よしみひゃくあな)」の地下軍需工場跡のことを知ったので、
次回はこことセットで訪問します。

原爆の図 丸木美術館 にいってきた_f0032106_08061699.jpg




原爆の図 丸木美術館 にいってきた_f0032106_09183410.jpg

     ↑ 当時のチケット 堺町画廊さんでみせてもらいました!










# by anzu-ruyori | 2018-08-11 08:43 | 平和 自由 

茗荷 みょうが

哲学の道のちかく
知らないおじさんに茗荷をもらった。
そのへんに出とった と。

茗荷 みょうが_f0032106_17050498.jpg

花まで咲いて、冷奴にのせて頂いた。
野趣で、とても美味。
茗荷 みょうが_f0032106_16400907.jpg

山尾三省さんの詩を思い出す


これは

地のもの逹の文化であり 文明であり

核兵器を作る人達や
原子力発電を作る人達への
捧げものではない


……………………………………………………………………

   大根おろし

畑には 大根が太っている
その大根を引き抜いて
大根おろしを作る
藍色のさらさもようのある お皿に入れて
しょうゆをかけて
それだけで 食べる
これは

地のもの逹の文化であり 文明であり

核兵器を作る人達や
原子力発電を作る人達への
捧げものではない


    つわぶきの煮つけ

野には
つわぶきの新芽がのびている
その新芽を引きぬき集めて
うす皮をむき
シイタケや油アゲといっしょに煮つける
藍色のさらさもようのある お皿に盛りつけて
やっと春になった と
にこにこしながら 食べる

こんなおいしいものは
この世にまたとない

これは

地のもの逹の文化であり 文明であり

核兵器を作る人達や
原子力発電を作る人達への
捧げものではない

   山尾三省詩集 びろう葉帽子の下で より

# by anzu-ruyori | 2018-07-17 17:03 | 日々ログ